• 国境や人種を超えたスポーツの力とゴルフの愉しさをすべての人に。
  1. ホーム >
  2. コラム >
  3. 【Legends of Golf Vol.4】年間グランドス...

【Legends of Golf Vol.4】年間グランドスラムを達成した球聖「ボビー・ジョーンズ」

ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。

タイガー・ウッズですら、まだ成し遂げたことのない「年間グランドスラム」を達成した男がいる。

その名はボビー・ジョーンズ。

アトランタ出身の弁護士であり第二次世界大戦には空軍の指揮官として参戦したこともある。

生涯アマチュアを貫き通した球聖は、「年間グランドスラム」を達成した唯一のプレーヤーであり、「マスターズ」を創設した人物としても知られている。

Bobby Jones

©Getty Images

ボビー・ジョーンズ(アメリカ)

1902年3月17日生まれ。1971年12月18日没(享年69歳)。ジョージア州アトランタ出身。1930年に年間グランドスラムを達成後、引退。弁護士。1974年世界ゴルフ殿堂入り。「マスターズ」創設者。

現代ゴルフを確立した紳士ボビー・ジョーンズ

©Getty Images

ヒッコリーシャフト時代の最も偉大な選手の1人で「球聖」と呼ばれた。数々の彼のレッスン本も当時出版された。

全スポーツ界の中でも伝説のスター

ゴルフの歴史において、何人もの大物たちがこれまでに存在してきたが、おそらくボビー・ジョーンズほど重要人物はいないだろう。

ジョーンズをゴルフにとどまらず、あらゆるスポーツのなかでも伝説的な人物たらしめているのは、最高のチャンピオンであり、かつゴルフで最も有名なメジャー大会の創設者としての彼の永続的な遺産があるから、である。

概ね1923年から1930年にかけてジョーンズが最高のキャリアを築いているときに、彼は当時メジャー大会だった「全英オープン」「全米オープン」ならびに「全米アマ」「全英アマ」で優勝し、通算13勝を積み重ねた。

彼はスポーツ界の名士とみなされているが、その人気と名声は、野球のベーブ・ルースやアメリカンフットボールのレッド・グレンジ、ボクサーのジャック・デンプシー、テニス界のスターであったビル・チルデンといった1920年代の他の伝説的なスポーツ選手と同等であった。

弁護士が本職のゴルファーが「マスターズ」を創設

本職は弁護士だったジョーンズは、生涯アマチュアとして控え目に競技に出場していたが、同時代のトップアマだけでなく、ウォルター・ヘーゲンやジーン・サラゼンといったプロをも打ち負かすのが常だった。

彼は出場したメジャー21試合中13勝を挙げているが、1930年、年間グランドスラムを達成し、その年、28歳で競技生活から引退している。

現在のグランドスラムは、「全米オープン」「全英オープン」「全米プロ」および「マスターズ」の4大メジャーで構成されているが、「マスターズ」については、彼がジョージア州オーガスタにオーガスタナショナルGCを造り上げたのちに、1934年に開始したものだ。

彼はこのゴルフコースを、著名な設計家であるアリスター・マッケンジーと共同でデザイン。

彼の時代に自分で達成したグランドスラムと現在のグランドスラムの双方に足跡を残しているのである。

©Getty Images

オーガスタナショナルGCのコース設計にも携わり、「マスターズ」を創設。

©Getty Images

プロショップの前には、彼を象った日時計が飾られている。

ゴルフトーナメントは檻の中のようなもの。いったん入ると抜け出すことが難しい

©Getty Images

構えたら素早く打つ「早打ち」として有名だったジョーンズ。腰をクルッと回してテークバックし、フィニッシュまで振り切るスイングだったという。オーガスタナショナルGCにて。

10代ですでに社会現象を巻き起こす天才に

1902年3月17日にアトランタで生まれたロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニアは、イーストレイクGCでインストラクターのスチュワート・メイデンにゴルフを習い、大事に育てられながら上達していった。

10代で天才と呼ばれたが、第一次世界大戦中は赤十字等の運動のために資金を集めて全国を巡っていた。

14歳の時に「ジョージア州アマチュア選手権」で優勝したことにより全米ゴルフ協会の役員に注目され、フィラデルフィア近郊のメリオンGCでの「全米アマ」に招待された。

彼は準々決勝まで進み、瞬く間に全国的にセンセーションを巻き起こしたのである。

©Getty Images

セントアンドリュース・オールドコースでの「全英オープン」開催中、スターターと会話するジョーンズ。「全英オープン」3勝。

グランドスラム達成直後の引退。なぜ……?

ジョーンズは1923年、ニューヨーク州のインウッドCCで開催された「全米オープン」で、ボビー・クリュックシャンクとの18ホールのプレーオフを制し、自身初のメジャータイトルを掴んだ。

彼はその後7年間、毎年、メジャー大会で少なくとも1勝を挙げており、1926年には同一年に「全英オープン」と「全米オープン」両大会で優勝するという歴史的なダブル優勝を達成した最初の人物となった。

彼はイギリスから帰国した際、紙吹雪の舞うパレード(2回のうちの1回目)で迎えられている。 

1930年に、ゴルフにおける究極の偉業である「グランドスラム」を達成。

その後すべてを成し遂げたのちに、競技ゴルフから引退した。この決断についてジョーンズは次のように語っている。

「それ(トーナメントでプレーすること)は、檻の中のようなものだ。最初はそれに加わるよう期待されるが、その後もずっとそこに留まることが当然とされる。しかしもちろん、誰もそこにずっと留まることなどできないのだ」

この偉業に関してあまり知られていない事実がある。

実はジョーンズは、グランドスラムを達成したシーズンに、自分が4つのすべてのメジャーに優勝することを賭けていたというのだ。

彼は、当時としては相当な金額である6万ドルを獲得した。

「グランドスラムの達成については、ゴルフの腕前を示す金字塔というより、困難な状況の中、我慢強くプレーしたことの価値自体を示すもの」と、ジョーンズは自身の著作『ゴルフ・イズ・マイゲーム』に記している。

「私は、プロジェクトが成功するかどうか全くわからないとき、自分自身をコントロールし、できる限り努力し続ける能力が決定的な要素であることを確信している。仮に優勝できるかできないのかわからない時も、できるだけ自分をコントロールし、できるだけ優勝に向けて努力するだけだ」

©Getty Images

「全英オープン」「全英アマ」優勝で湧き返るジョーンズの優勝パレードが、ニューヨークで行なわれた。右横は妻のメアリー。

グランドスラムはゴルフの腕前を示すものではない。いかに苦しい時を我慢強く乗り越えたかの証だ

©Getty Images

1930年、28歳の若さで年間グランドスラムを達成。左から「全英オープン」「全米アマ」「全英アマ」「全米オープン」の優勝トロフィ。

マルチタレントぶりを発揮したジョーンズ

オーガスタに夢のコースを建設することに加えて、ジョーンズは弁護士業を続けた。彼は生計を立てるために本も書き、また、ハリウッドの映画会社であるワーナー・ブラザースのためにゴルフレッスン映画の制作も行なった。

また、ゴルフの道具にも貢献。スポルディング社はジョーンズの名前を冠したアイアンセットを発売したが、各番手に数字を刻んだクラブを製作。

アイアンに変革をもたらした。 

ジョーンズは、数年にわたり、オーガスタに自ら作ったトーナメントでプレーした。彼の最高成績は、「オーガスタ・ナショナル招待トーナメント」として開催された第1回目の試合で、13位タイであった。

このトーナメントが1939年に、彼のパートナーでありクラブの共同設立者であったクリフォード・ロバーツの要望により「マスターズ・トーナメント」となったのである。

©Getty Images

1910年代、犬と戯れるジョーンズ。

現代ゴルフを確立した紳士の晩年

1948年、ジョーンズは脊髄空洞症と診断された。

この病気は、脊髄の中に液体の溜まった空洞ができて、最終的に麻痺をもたらすものである。

彼は晩年、車椅子で過ごさざるを得ず、この病気のために、1971年12月18日に69歳で亡くなった。

ゴルフ競技に対するジョーンズの影響について、ニューヨークタイムズは、最近の歴史的人物評の中で、ジョーンズは『現代ゴルフを確立した紳士』であったと記しているが、彼の業績は実際それだけにとどまらないのである。

©Getty Images

1965年「マスターズ」でジャック・ニクラスが優勝。上段左からゲーリー・プレーヤー、ジャック・ニクラス、アーノルド・パーマー。下段左から「マスターズ」創設者のボビー・ジョーンズ、クリフォード・ロバーツ。

©Getty Images

ボビー・ジョーンズは1948年、脊髄空洞症の診断を受け、車椅子の生活を余儀なくされた。1971年69歳没。

Photo/Getty Images

Text/Dave Shedloski

デーブ・シェドロスキー

長年に渡り、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの遺作『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。

関連する記事