ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
PGAツアーで通算25勝、メジャーは1973年「全米オープン」、1976年「全英オープン」と2勝を挙げているジョニー・ミラー。
1974年には日本の「ダンロップフェニックストーナメント」でも優勝しており、同い年のジャンボ尾崎の世界ゴルフ殿堂入りに一役買ったことでも知られている。
2019年までは、ゴルフ中継解説者として活躍し、その分析力、情報量で右に出る者はいない。
そんな70年代の世界のスーパースターについてご紹介しよう。
Johnny Miller
ジョニー・ミラー(米国)
1947年4月29日生まれ(75歳)。サンフランシスコ出身で、1969年にプロ転向。ブリガムヤング大出身。PGAツアー通算25勝。メジャー2勝。PGAツアー賞金ランク最高位1位。世界ゴルフ殿堂入り選手。1990~2019年までNBCスポーツのゴルフ中継の解説者として活躍していた。ゴルフ場設計にも携わっている。
2014年、「WGCブリヂストン招待」開催地のファイヤーストーンCC で、ゴルフのアンバサダーとして表彰を受けるジョニー・ミラー。
PGAツアー通算25勝、メジャー2勝を挙げた、ジャック・ニクラスも称賛するショットメーカー
8歳の誕生日の時にプレゼントでもらったゴルフクラブのセットを、近所の公園で試し打ちするミラー。
親しかったジャック・ニクラス(右)とチームを組み、参戦した「クライスラー・チームインビテーショナル」で優勝。
アマチュア時代からゴルフの才能を発揮していたミラー
ジョニー・ミラーはゴルフ史上、最も輝かしく、刺激的な選手の一人である。
また、爆発力のある選手だったため、一時期、PGAツアー最強の選手の一人となり、世に知られた勝利を収めることができた。
直感的なひらめきとアグレッシブさ、そして卓越したショットメイキングの才を兼ね備えたミラーは、PGAツアーで通算25勝を挙げたが、中でも歴史的な逆転劇を演じ、メジャー2勝のうちの1勝となった1973年「全米オープン」で、最も印象に残るプレーを披露した。
1947年4月29日、サンフランシスコに生まれたジョン・ローレンス・ミラーは、少年時代にゴルフを始め、父ローレンスと師のジョン・ガートソンという2人の重要な人物から指導を受けた。
彼はすぐに、由緒あるオリンピッククラブの「ジュニア・メリット・メンバー」としてプレーする特権を得るに至り、開花したゴルフの才能は、全米ゴルフ協会が開催した2つの重要な大会で輝くほど。
その後の人生の成功を示唆するものだった。
1964年、オレゴン州ユージーンにあるユージーンカントリークラブで開催された「全米ジュニアアマ」で優勝し、2年後、19歳で、オリンピッククラブで開催された1966年「全米オープン」への出場権を獲得した。
彼は予選を通過しただけでなく、70―72の142で回り、5位タイに入ったのだ。
ブリガムヤング大学2年生だったミラーは、第3ラウンドで、自身にとって兄貴分的な存在となる、「マスターズ」チャンピオンのジャック・ニクラスと同組でラウンドし、8位タイフィニッシュ。ローアマに輝いた。
自らも認める無敵のアイアンショット
ミラーは1969年に、オールアメリカンに選出されたブリガムヤング大学を卒業し、プロに転向したが、彼は、すぐに大成功を収めたわけではない。
1971年の「サザン・オープン・インビテーショナル」で、のちにPGAツアーのコミッショナーとなるディーン・ビーマンを5打差で破り、初優勝するまでに2年の月日を要した。
翌年、「シーパインズ・ヘリテージ・クラシック」で優勝した後、73年にはピッツバーグ近郊のオークモントカントリークラブで行なわれた第73回「全米オープン」で大勝利を収め、才気あふれるゴルフに拍車をかけたのだった。
6打差で迎えたオークモントでの最終ラウンドで、ミラーはティーオフ直前の練習場でスイングを大きく変えたが、その結果、メジャー大会史上最高レベルの成績を残した。
最初の4ホールでバーディを奪い、8アンダーパーの63で11人を抜き去り、「全米オープン」チャンピオンに輝いたのだ。
この記録は、メジャー大会の最終ラウンドで優勝者が記録した最少ストローク記録であり、ゴルフ史にその名を刻むことになったのである。
そして1974年、ミラーへの門は開かれた。その年に8勝し、翌年も4勝。
この年は「マスターズ」(ジャック・ニクラス優勝)、「全英オープン」(トム・ワトソン優勝)でそれぞれ2位タイと3位タイに入った。
1975年の序盤に挙げた2勝は、息を呑むような圧倒的な強さだった。
「フェニックスオープン」では、2位と14打差で優勝したが、彼は第2ラウンドで61をマークするなど4日間で通算24アンダーパーの260ストロークを記録。
当該ツアーで、20年間で72ホールの最少スコアを叩き出し、2位と14ストローク差の優勝を果たした。
その後「ツーソンオープン」では、最終ラウンドで61をマークし、9打差で優勝。この2つは、いずれもアリゾナでの優勝だったことから、「デザート・フォックス」というニックネームが付けられた。
「ツーソンで、9打差で勝ったとき、試合中に打ったアイアンショットの平均は、狙ったラインから1メートルも外れていなかったと思う。信じられないほどショットが絶好調だったね。全盛期には、どこからでもアイアンでピンを直接狙えるようなゴルフを何度もしていたよ。私は何度か無敵だと思えるゴルフをしていたんだ」とミラーは語った。
188センチという長身を生かしたスイングで定評があったミラー。写真は1970年代の「マスターズ」に参戦中のもの。
1976年、ロイヤル・バークデールGCで開催された「全英オープン」で優勝。
1976年、「全英オープン」に初出場した19歳のセベ・バレステロスが、3日目まで首位だったが、最終日にミラーが逆転優勝を果たし、バレステロスは2位に。
リンダ夫人(左)と子供たち。彼は6人の子宝に恵まれた。
1981年「ライダーカップ」米国優勝に貢献したミラー(後列)。他、ジャック・ニクラス、トム・ワトソン、トム・カイト、ベン・クレンショー、ヘール・アーウィン、ラリー・ネルソンらの顔も。
1994年「AT&Tペブルビーチ・プロアマ」での優勝が、彼の最後のPGAツアー優勝となった。
鋭い観察力、洞察力と情報量でテレビ中継解説も卓越
1990~2019年まで、NBCスポーツのゴルフ中継解説者として、ダン・ヒックス(右)とともに活躍していた。写真は2015年「ツアー選手権」で優勝し、フェデックスカップ総合優勝も果たしたジョーダン・スピースにインタビューするミラー。
「全英オープン」優勝、そしてゴルフ解説者へ
1976年にロイヤル・バークデールで開催された「全英オープン」では、最終ラウンドでコースレコードの66をマークし、19歳のセベ・バレステロスを逆転して6打差で優勝。再びそのアグレッシブさを発揮した。
だが信じられないことに、彼はその後の3年間、ツアーで勝つことはなく、ゴルフへの関心も薄れていった。
リンダ夫人と家庭を築き、6人の子どもが生まれた。
一時期は輝きを取り戻したものの、ケガをしたことで、以前同様に激しく競い合うことはできなくなってしまった。
「山の頂上に着いたとき、景色を見ながら『さて、これからどうしよう?』と思った。ジャック(ニクラス)は頂点に立った時、『次の山はどこだ?』と言っていたが、私はそんな風には考えられなかった」とミラーは認めた。
彼はその後、彼の並外れたゴルフの才能を表す忘れられない思い出を一つ残した。
イップスと闘い、引退同然だったが、ミラーは、1994年の「AT&Tペブルビーチ・プロアマ」で、トム・ワトソンを含む4選手を1打差で破り、最後の優勝を果たしたのだ。
当時、彼はNBCスポーツのゴルフ中継のリードアナリストとして働き始め、引退したも同然の状態だった。1987年の同大会優勝から7年、それまでの4年間でPGAツアーの大会にわずか5回しか出場しておらず、控えめに言っても、この優勝は予想外だった。
引退したあとも、ミラーはNBCスポーツのテレビ解説者として、ゴルフ界で著名な存在であり続け、特に「全米オープン」の中継では、歯に衣着せぬ率直さと洞察力、コースに対する鋭い理解から、ゴルフ界で最も人気のある解説者の一人となった。
だが、2019年には放送界を引退した。
世界各地で35勝を挙げたミラーは、1998年に世界ゴルフ殿堂入りを果たした。
フレッド・カプルスはミラーを「おそらく史上最高のボールストライカー」であると称え、ニクラスも同様に、ミラーは「史上最高のショートアイアンプレーヤー」だと称賛している。
Photo/Getty Images
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
長年に渡り、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの遺作『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。