ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
世界のゴルフ通なら、一度はプレーしてみたいと思うパインハーストNo.2や、5月の「全米プロ」開催コースのオークヒルCC。
これらのコースの他にも、米国の数々の有名なゴルフ場を設計したのがスコットランドが生んだ奇才、ドナルド・ロスだ。
スコットランドからアメリカに渡り、コース設計の黄金期を築いた彼の偉業と生涯をたどる。
Donald Ross
ドナルド・ロス
(スコットランド)
1872年11月23日生まれ、1948年4月26日没。スコットランド・ドーノックに生まれたが、のちに米国に渡り、米国市民に。プロゴルファーであり、ゴルフコースデザイナー。1977年、世界ゴルフ殿堂入り。
伝説のオールド・トム・モリスにゴルフのすべてを学び、コース設計の才能を開花させたドナルド・ロス
第二次世界大戦前のゴルフ場設計事情
第二次世界大戦前には、その時代で尊敬されていた何人かのコース設計家がいた。
英国では、オールド・トム・モリスやハリー・S・コルトが巨匠、または、先駆者とみなされていた。
米国では、チャールズ・ブレア・マクドナルドが初期の先駆者であり、全米ゴルフ協会を設立した原動力のひとりであった。
アリスター・マッケンジーは、ボビー・ジョーンズが、おそらく世界で最も有名なコースであるオーガスタナショナル・ゴルフクラブの設計に彼の協力を仰いだが、その仕事ぶりで世に大きな衝撃を与えた。
素晴らしいコースがすべて、有名な設計者が手掛けたものというわけではない。
アメリカで最も優れたコースの中には、単なるアマチュアのコース設計家に過ぎない者たちによって造られたものもある。
ペブルビーチ・ゴルフリンクスとオークモント・カントリークラブは、「全米オープン」のローテーションに組み込まれている、アメリカの2つの代表的なレイアウトだが、著名な設計家の作品ではない。
オークモント・カントリークラブは、そのオーナーのヘンリー・ファウンズ氏の発案によるもので、その息子のウィリアムは、USGA(全米ゴルフ協会)会長を務めるなど、米国ゴルフ界で著名な人物となった。
一方、カリフォルニアの2人のトップアマ、ジャック・ネビルとダグラス・グラントは、ペブルビーチの最初のルーティングを任された人物であり、ペブルビーチはゴルフ界で最も象徴的なゴルフ場のひとつである。
スコットランド人が米国のゴルフ場設計の礎を築く
おそらくこの分野で究極のプロフェッショナルで、そして間違いなく最も多作であったのは、スコットランド生まれのゴルフの天才、ドナルド・J・ロスだ。
ロスは、その比類なき才能を発揮して、全米で約600コースを設計・改修した。
ロスが最も活躍したのは、「ゴルフコース建設の黄金時代」として知られる時期だ。
1910年から1936年にかけて、米国では5000を超えるコースがオープンし、最高のコースのほとんどが、この時代を象徴する基本的な戦略哲学を採用して造られた。
この時代の最も著名な設計家は、今日でもよく知られているマッケンジー、A・W・ティリングハースト、セス・レイナー、ジョージ・C・トーマス・ジュニア、そしてもちろんロスだ。
コース設計家であり歴史家でもあるビル・クーアは、次のように『リンクス』誌に語っている。
「黄金時代は、状況、才能、アイデアが集まった稀有で偶然の産物だった。彼らは優れたエンジニアであり設計家でしたが、心理的な要素も理解していた。彼らはゴルファーに挑み、彼らの心を引き付けたのだ」
この運動の先頭に立っていたのは、スコットランド出身の、成功を収めた選手でありクラブメーカーでもあったレジェンド、トム・モリスに弟子入りした男、ドナルド・ロスだった。
ロスほどゴルフに精通し、その分野の教育を受けた者はいなかった。
ある意味、彼はゴルフ界初の「代表的な」設計家だったのだ。
ロスとその非凡な才能については、本やテレビ番組で紹介されているが、この男はゴルフ界の至宝であり、のちの時代にコース設計家が活躍し、キャリアを築くためのひな型を提供した。
全米で約600コースを設計・改修しアメリカのゴルフを育てたロス
オールド・トム・モリスからゴルフ場設計を学ぶ
1872年11月23日、スコットランドのドーノックで6人兄弟の一人として生まれた。
ロスは、早くからゴルフに親しんだが、10代でクラブ製作やグリーンキーピングなどのプロの技術を学ぶためにセントアンドリュースへ南下し、キャディを務め、また素晴らしいゴルファーでもあった。
そこでは、自然の地形を生かしたコースルーティングや建設を専門とするモリスの指導のもと、設計も学んだ。
2年後にドーノックに戻り、1899年にはハーバード大学のロバート・ウィルソン教授によりアメリカに招かれ、マサチューセッツ州ウォータータウンのオークリーCCで働くことになったが、それまではドーノックでグリーンキーパーやプロとして6年間を過ごした。
アメリカに到着した時、彼が持っていたのは、ポケットに2ドルとゴルフクラブ数本、スーツケース1つだけだったが、オークリーCCのメンバーの中に、ノースカロライナ州にパインハースト・リゾートを設立したジェームス・W・タフツという人物がいたのは幸いだった。
パインハーストへ移住しコース設計家として活躍
ロスは、1900年にパインハーストでクラブプロとなり、自身の設計ビジネスが盛んになり始めた1910年に、その有名なリゾート地に永住した。
この頃、コース設計に対する彼の報酬は25ドルだった。
1916年、戦略的な設計哲学のコンセプトをより深く理解した彼は、市民権(国籍)を取得したアメリカ全土で本格的にコース設計を求められ、オハイオ州コロンバスのサイオト・カントリークラブ、マサチューセッツ州のウースター、デトロイトのオークランドヒルズなどのレイアウトにその知識と技術を生かした。
もちろん、彼の代表作は、2024年に4度目の「全米オープン」開催予定のパインハーストのNo・ 2だ。
ビル・クーアとベン・クレンショーは、2014年の「全米オープン」の前に、この有名なレイアウトを修復した。
ロスはかつて、「1つのホールには2つのプレー方法があるべきで、1つは身体的に強い人のためのもの、もう1つはそうでない人のためのものだ。パーを取ることが体力次第というよりも技術によるものとなるよう、ホールに仕掛けを施すべき」と設計意図を記したことがある。
ロスはおそらく、自身の名を冠したすべてのコースのうち、3分の1は見たことがなく、もう3分の1は1~2回しか訪れたことがないだろう、と歴史家たちは見ている。
パインハーストの3番グリーンの後ろにある彼のコテージで、何度も設計作業を行なっただけだったのだ。
そこで彼は、地形図をもとに作業を行ない、設計図を描き、従われるべきシンプルだが厳密な指示を書いた。
また、自分の仕事を理解してくれる経験豊富な建設作業員や、設計アシスタントのJ・B・マクガバンやウォルター・ハッチの力も借りた。
専門家たちは、彼のルーティングが、彼のコンセプトの最大の長所だと考えている。
1947年、アメリカ・ゴルフコース設計家協会(ASGCA)を創設した者のひとりであるロスは、初代会長就任を辞退し、名誉職を引き受けた。
ASGCAは毎年、彼に敬意を表し、ゴルフとコース建設に貢献したゴルフ界の人物に、賞を贈っている。
ロスは、設計家としてのキャリアにより中断するまで、「ノース&サウス・オープン」で3勝し、「全米オープン」(1903年・5位)と「全英オープン」(1910年・8位タイ)でトップ10入りを果たした優秀なゴルファーだった。
1948年4月26日、最後のコースとなったノースカロライナ州ローリーにあるローリーCCを設計中に死去した。
合計31州とカナダの4州にロスのゴルフコースがある。
「彼の作品は美しく、非常に多くの考えや創造的な価値が反映されている。そして、それが持続しているのだ。彼ほどアメリカのゴルフに影響を与えた人物はいない」とクレンショーは語っている。
Photo/The Tufts Archives,Pinehurst,NC
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
(アメリカ)
長年にわたり、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの伝記『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。