ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
第2次世界大戦中は海兵隊に所属。
メジャー2勝で、今年1月に100歳で亡くなった世界ゴルフ殿堂入り選手を紹介する。
Jackie Burke
今年の1月に亡くなった、1950年代に大活躍したメジャーチャンピオン、ジャッキー・バーク。
タイガー・ウッズとは「マスターズ」のチャンピオンズロッカールームを共有していた、日本ではあまりなじみのないレジェンドだ。
亡くなった時点で、存命するメジャーチャンピオンの中でも最高齢だった彼の偉業をお伝えしよう。
ベン・ホーガンの親友でゴルフの世界に多大なる影響を与えた「マスターズ」チャンピオン
ジャック・ニクラスも教えた、メジャー2勝のレジェンド
ジャック・バーク・ジュニア(ジャッキー・バークとしてより広く知られている)は、ゴルフ史において間違いなく最もインスピレーションを与えた人物の1人だった。
テキサス州出身の彼は、ベン・ホーガンの親友であり、ジミー・デマレットのビジネスパートナーであり、ジャック・ニクラスからハル・サットン、スティーブ・エルキントンに至るまでのプレーヤーたちにアドバイスした賢者でもあった。
PGAツアーで16勝を飾り、1956年にはメジャー2試合で優勝するなど、生まれながらにしてゴルフの天賦の才を持ち、それを自然体で示すことができた。
さらに重要なことに、彼はその知識を伝え、教えるのが得意で、彼の知恵はしばしば求められ、彼は熱心にそれを伝えた。
アマチュア時代のサットンがプロ転向前にバークに対し、ツアー1年目で何を期待すべきか尋ねたとき、バークは何も言わずにサットンを軽く押した。
その時、サットンは少しよろめいたのだが、これはつまり、サットンは少しバランスが悪い事を感じる必要があったのだ。
「わかりました」とサットンは言い、「ジャッキーの言う通りだった」と語った。
1950年代にメジャーや「ライダーカップ」でも大活躍!
ジョン・ジョセフ・バーク・ジュニアとして1923年1月29日にテキサス州フォートワースで生まれたジャッキーは、4歳でゴルフを始めた。
彼の父、バーク・シニアはヒューストンのリバーオークス・カントリークラブのヘッドプロであり、試合で2勝しているとても優秀なトーナメントプロでもあった。
1920年、オハイオ州トレドのインバネスクラブで開催された「全米オープン」では、テッド・レイに次いで2位タイでフィニッシュ。
彼はまた、優れたインストラクターでもあり、著名なインストラクターのジャック・グラウト、ハービー・ペニック、クロード・ハーモンに影響を与えた。
父の許しを得て、バークは17歳でプロ転向したが、数年後には海兵隊に入隊することを決意した。
兵役が終わると、彼はいくつかのゴルフ場の仕事に就き、最終的にウィングドフットのクロード・ハーモンのもとでアシスタントプロとなった。
そこで彼は、自分のゴルフの腕を磨き、やがて結果が出始めた。
バークは1950年から1963年にかけて、トーナメントで16勝し、1950年の4勝を皮切りに、1952年には4連勝を含む5勝を挙げた。
1956年には、「マスターズ」と「全米プロ」での優勝により、PGA・年間最優秀選手に選ばれた。
バークは今でも「マスターズ」での最大の逆転勝利の記録を保持している。
最終ラウンドでのスコア71で、アマチュアのケン・ベンチュリによる8打差のリードを覆したのだ。ベンチュリは、最終ラウンドで80を叩いた。
数か月後、バークはマサチューセッツ州カントンのブルーヒルカントリークラブで開催された「全米プロ」でも優勝。まだマッチプレーで行なわれていた頃の話だ。
準決勝では5ダウンから挽回してエド・ファーゴルを破り、36ホールの決勝ではこちらも逆転の末、テッド・クロールを3&2で下して優勝した。
彼の最後のツアー優勝は、1963年の「ラッキーインターナショナルオープン」で、40歳の誕生日直前に達成された。
彼はまた、キャリアを通じて21回2位になり、1974年の「マスターズ」で予選落ちした際に、メジャーへの出場を終えた。
バークはヴァードン・トロフィーと賞金王を1度ずつ獲得したが、彼は決してお金のためにプレーしていたわけではないと述べている。
「振り返ると、私が楽しんだのは単にプレーすることだった。勝利(や賞金)は、たまたまそうなっただけだ」
彼は1951年から1959年にかけて「ライダーカップ」に米国チームの一員として5回連続で出場。
1957年にはイギリスが1933年以来の優勝を果たしたが、その年、彼はプレーイングキャプテンを務めた。
選手の1人が体調を崩したため、シングルス戦に急遽出場し、これが彼の「ライダーカップ」での8マッチの中で唯一の敗北となってしまった。
1973年にはスコットランドのミュアフィールドで行なわれた「ライダーカップ」で米国チームのキャプテンとしてイギリス&アイルランドチームに19対13で勝利。
リベンジを果たした。81歳のときには、2004年の「ライダーカップ」米国チームでサットンの副キャプテンを務めたこともある。
各ゴルフ団体から功労賞を贈られ、世界ゴルフ殿堂入りを果たす
上級者ONLYのゴルフ場をオープン
1956年の成功をきっかけに、のちに彼が情熱を傾けることになる事業を始めた。
父のバーク・シニアのもとでアシスタントを務めていた「マスターズ」3勝のデマレットと組み、ヒューストンにチャンピオンズゴルフクラブを設立。
1967年の「ライダーカップ」、1969年の「全米オープン」を開催し、1997年から2003年の間に「ツアー選手権」を4回開催した。
2020年には、第75回「全米女子オープン」も開催している。
このクラブは純粋なゴルフクラブで、テニスや水泳などの他のアクティビティはなかった。
これはバークのゴルファーとしてのルーツと、ゲームへの愛情に極めて一致しており、彼とデマレットは上級者にのみ入会を許可した。
「ヨットクラブをボートを操れない人々でいっぱいにするのは、あまり意味がない」と彼はかつて米国「ゴルフダイジェスト」誌に語ったことがある。
このような素朴な知恵と論理が、彼の人生とキャリアを特徴付けていたのだ。
2000年、バークは世界ゴルフ殿堂入りを果たした。
ゴルフというゲームへの貢献と、彼の誠実さ、およびスポーツマンシップにより、2004年にはボブ・ジョーンズ賞が全米ゴルフ協会から授与された。
さらに2007年には、全米プロゴルフ協会から功労賞が授与された。
バークは2023年1月29日に100歳を迎え、100歳になった最初のメジャーチャンピオンとして知られるようになった。
彼の2番目の妻、ロビン夫人は、テキサス出身のベン・クレンショーとトム・カイトを含む多くのプロゴルファーが出席した盛大な誕生日パーティを開催した。
彼は今年初めに亡くなった。
2024年1月19日、101歳の誕生日を迎える10日前のことだった。
ロビン夫人と彼らの娘メーガンが残されているが、彼はまた、最初の妻アイリーンとの間に5人の子供がいる。
Photo/Getty Images
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
(アメリカ)
長年にわたり、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの伝記『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。