ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
ゴルフ界の人種の壁を打ち破った、米ツアー初の黒人選手「チャーリー・シフォード」
タイガー・ウッズ誕生のきっかけにもなった彼の生涯を振り返る。
Charlie Sifford
もしチャーリー・シフォードが存在しなかったら、タイガー・ウッズは、プロゴルファーとして名声を築くこともなかっただろう。
PGAツアー初の黒人選手であり、ゴルフ界の人種差別と闘ってきたシフォードは、のちに白色人種以外の選手がゴルフ界で活躍する道を切り開いた偉大なるパイオニアだ。
家計を助けるために始めたゴルフで
のちにプロ入りしてPGAツアーメンバーに
プロ通算23勝を達成
ゴルフ界で人種の壁を初めて取っ払った黒人ゴルファー
1961年、チャーリー・シフォードはゴルフの人種の壁を打ち破り、その後、故郷のノースカロライナ州で行なわれた、彼にとって初のトーナメントに出場したが、その時、匿名の電話で殺害の脅迫を受けた。
チャーリー・シフォードは、素早いスイングと葉巻をくわえた黒人ゴルファーとして知られていたが、彼は脅迫電話の相手に「お前が何をしようとしているのか知らないが、午前9時20分には準備をしておいたほうがいい。
なぜならその時間に私は1番ティーに立つからだ」と応えたという。
このように、自身のゴルフ人生の軌跡と同様、ゴルフの常識そのものを変えたシフォードの勇気と決意は、障害や脅迫にも屈しないものであった。
そのため、PGAツアーに出場することは単なる挑戦であり、彼はそれを完全に受け入れたのである。
たとえゴルフというゲームが彼をすぐには受け入れなかったとしても。
チャールズ・ルーサー・シフォードは、1922年6月2日にノースカロライナ州シャーロットで、ロスコーとエリザの6人の子供の一人として生まれた。
10歳のときにカロライナカントリークラブでキャディを始め、家計を助けるためにゴルフに携わるようになった。
彼は18ホールごとに35セントとチップを稼ぎ、しばしば1日に36ホールを回った。
彼はコースが閉まっているときや、隙を見て数ホールをプレーすることで上達し、PGAプロのクレイトン・ヒーフナーからの指導を受けてさらにゴルフの腕を上げた。
シフォードは17歳のときにフィラデルフィアに移り、叔父の一人とともに暮らし、他の黒人ゴルファーと競い始めた。
その後、軍隊に入隊。26歳でプロに転向し、指導者であるテッド・ローズとともにユナイテッド・ゴルファーズ・アソシエーションに参加。
すぐにトッププレーヤーとなり、「ネグロ・ナショナル・オープン」を6回も制覇した。
彼はプロとして通算23勝を挙げている。
1957年には「ロングビーチオープン」での勝利で広く知られるようになった。
この試合では最終ラウンドで7アンダーの64を記録し、ビリー・キャスパーやジーン・リトラーなどの将来のメジャーチャンピオンを打ち負かした。
54ホールの非公式トーナメントであったが、シフォードにとっては非常に大きな出来事だった。
「これこそ私が待ち望んでいたことだ。これで本当に前進できることを願っている」と彼は語った。
ジャック·ニクラスとシフォード
シフォードはPGAツアーのいくつかの大会に出場する機会を得たが、ツアーメンバーではなかった。
彼は1958年にオハイオ州アクロンのファイアストーンカントリークラブで開催された「ラバーシティオープン」に招待され、温かく迎えられた。
彼はコロンバス出身の、当時若いアマチュア選手だったジャック・ニクラスとペアを組み、ニクラスはPGAツアーの大会に初めて出場することになった。
通信社の報道によると、シフォードとニクラスは、新人のジェリー・マギーとともに午前9時45分にティーオフし、彼らのグループには最も多くのギャラリーが集まったと言われている。
ニクラスはシフォードとすぐに打ち解けたことを覚えており、ジャックの父親であるチャーリーも同様だった。
チャーリーは第2ラウンドの前にシフォードのために葉巻を買い、彼らは生涯の友となったのだ。
おそらく、チャーリーが買った葉巻が、シフォードの好みに合ったことが一因だろう。
「彼は親切で優雅だった」とニクラスはシフォードについて回想した。
「彼は本当に紳士で、その落ち着いた態度で私を安心させてくれたんだ」
初のPGAツアーメンバーになり、数々の優勝を達成
ついに1961年、全米プロゴルフ協会がコーカソイド限定条項を撤廃する圧力を受けたことで、シフォードはPGAツアーの最初の黒人メンバーとなった。
彼は39歳で、すでに全盛期を過ぎていたが、それは問題ではなかった。
1963年、彼は非公式トーナメントである「プエルトリコオープン」で優勝したが、その後1967年の「ハートフォードオープン」で画期的な勝利を収めた。
シフォードは最終ラウンドで7アンダーの64を記録し、このときはウェザーフィールドカントリークラブの後半9ホールで、5アンダーの31をマーク。
通算12アンダー(272ストローク)でスティーブ・オッパーマンを1打差で破り、2万ドルを獲得した。
2年後、彼は「ロサンゼルスオープン」でハロルド・ヘニングをサドンデスプレーオフで破り、2勝目を達成。
その過程で、ランチョ・パークゴルフコースの第1ラウンドで63を記録した。
彼はその後、1975年にウォルト・ディズニーワールドで開催された「全米プロシニア」でフレッド・ワンプラーをプレーオフで破り、シニアのメジャータイトルを手にした。
1980年には「サンツリークラシック」で2つ目のシニアタイトルを獲得。
また、「リバティ・ミューチュアル・レジェンズ・オブ・ゴルフ」では、ロベルト・デ・ビセンゾとのコンビで3勝、ジョー・ヒメネスとのコンビでさらに3勝を果たした。
シフォードの挑戦と功績により
タイガー・ウッズという偉大なゴルファーが生まれた
功績が認められ、世界ゴルフ殿堂入り
その後、遅ればせながら、シフォードは愛するゴルフ界から正当な評価を受けた。
1992年、彼はノースカロライナ州スポーツ殿堂入りを果たし、同年、自伝「Just Let Me Play(ただ私をプレーさせて)」を執筆。
さらに重要なことに、2004年には世界ゴルフ殿堂入りを果たしたのだ。
ゲーリー・プレーヤーはシフォードを紹介する際、「彼は戦士だ」と称賛。
シフォードは殿堂入りを、メジャー優勝よりも大きな名誉と考えていた。
「私がやってきたあの小さなゴルフは、なかなか良かったんじゃないか?」と彼は語った。
2006年、シフォードはセントアンドリュース大学から名誉博士号を授与され、翌年にはオールド・トム・モリス賞を受賞。
2011年には、メクレンバーグ郡公園・レクリエーション局がレボリューション・パーク・ゴルフコースの名前を、ドクター・チャールズ・L・シフォード・ゴルフコース・アット・レボリューション・パークに変更した。
また没後の2017年には、PGAツアーの「ジェネシス・インビテーショナル」(タイガー・ウッズがホストを務める大会)のマイノリティゴルファーに与えられる特別招待枠が、「チャーリー・シフォード・メモリアル・エグゼンプション」に改名された。
アメリカ合衆国・第44代大統領バラク・オバマは、2014年にシフォードに「大統領自由勲章」を授与した。
シフォードは2015年2月3日、オハイオ州クリーブランドで92歳で亡くなった。
彼が、かつてツアーのメンバーシップを拒否した組織である、全米プロゴルフ協会の殿堂入りを果たした直後のことである。
そして彼の100回目の誕生日にあたる2022年、シフォードはオハイオ州ダブリンで開催されたニクラスの「メモリアル・トーナメント」で称えられた。
シフォードから最も大きな影響を受けたというタイガー・ウッズはこう語っている。
「私の意見では、チャーリーはゴルフ史上、最も勇敢な人物の一人だ」
ちなみに、タイガーの長男、チャーリーくんの名前は、シフォードにちなんで名付けられたという。
Photo/Getty Images
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
(アメリカ)
長年にわたり、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの伝記『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。