1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第26回は仁川ゴルフ倶楽部を紹介する。
Before
仁川ゴルフ倶楽部
47年間続いた、全9ホールの会員制ゴルフコース

※参考文献=「全国ゴルフ・コース案内 関西編」(水谷準著、ベースボール・マガジン社刊)「100周年記念誌 NARUO SPIRIT」(鳴尾ゴルフ倶楽部刊) 「日本経済新聞2022年3月8日付」
写真提供=JRA

Now
阪神競馬場
3月1日にリニューアルオープンしたばかりの競馬場



芝のレーストラックの内側に、芝のゴルフコース。
ゴルフと競馬の縁は元々深く、この連載も、横浜の根岸競馬場(現根岸森林公園)の内馬場にできた根岸GCに始まった。
根岸ができるまで、日本には砂を固めたサンドグリーンしかなかった。
ゴルフ場第1号の神戸GCと、2番目にできた横屋GAだ(神戸GCでは、サンドグリーンが再現されたこともあった)。
関東では初、日本で3番目のゴルフ場である根岸GCで、日本初の芝グリーンが産声を上げた。
そして関西にも、同様の例がある。
競馬ファンにはおなじみの阪神競馬場(兵庫県宝塚市)の内馬場にも、ゴルフ場が存在していたのだ。
1951年開場の「仁川ゴルフ倶楽部」である。9ホールの2409ヤード・パー33のゴルフ場で、設計は東京ゴルフ倶楽部、名古屋ゴルフ倶楽部・和合コース、川奈ホテル・大島コースなど多くのゴルフ場設計にも携わった大谷光明が担当した。
ビックリするのは「馬場越え」のホールがあること。
3、5、7、9番の4ホールが馬場を越えて打っていくため、当然のことながらレースが開催される土、日曜日はゴルフ場の営業はできない。
1963年発行の「全国ゴルフ・コース案内 関西編」にも仁川GCのビジターフィーが掲載されているが、料金は「平日1000円(税別)」としか載っていない。
ボールを馬場に打ち込んでしまうミスを犯すゴルファーも、当然いた。
競馬場のコースコンディションを保つために、レース前日のボール回収も、大きな仕事だった。
阪神競馬場とゴルフとの縁はまだまだある。
第2次世界大戦直後の開場時、現在の地に競馬場ができる経緯にもゴルフが深くかかわっていた。
阪神競馬場は戦前、兵庫県西宮市の鳴尾地区にあった。
その隣にあった鳴尾速歩競馬場の跡地に、鳴尾ゴルフ倶楽部浜コースができたことは前回説明したが、こちらは川西航空機工場拡張の要望を受け1939年に閉鎖。
競馬場の方は、飛行試験などに使う飛行場用地として目をつけた日本海軍に譲渡されることが決まり、1943年に閉場したいきさつがある。
一度は姿を消した競馬場。
その代替地となったのが宝塚ゴルフ倶楽部を含んだエリアだった。
日本競馬会(現JRA=日本中央競馬会の前身)が海軍の仲介も得て、ここに国内最大の競馬場を造る計画を立て、買収した。
1945年8月に第2次世界大戦が終わり、進駐してきた米軍がそこに目をつける。
米国人にもゴルフ好きは多い。
同倶楽部と日本競馬会の土地を保養施設とするため接収した。
こうして競馬場建設は頓挫。さらなる移転先として川西航空機の宝塚製作所跡が見つかり、開設できたのが今の阪神競馬場だ。
その競馬場内に、なぜゴルフ場ができたのか。
紫電改などを製造していた軍需工場であった同製作所は、第2次大戦中に標的となり空襲を受けた。
その爪痕は内馬場に色濃く残っていたため、ゴルフ場を造り、整備するという方法が取られたわけだ。
ゴルフ場と競馬場。時代の荒波にもまれながら、ともに芝の上で行なわれるスポーツという親和性もあり、仁川ゴルフ倶楽部がなくなる1998年12月31日までの47年間、両者は、共に歴史を紡いだ。
Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。