1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第27回は小原台ゴルフ場を紹介する。
Before
小原台ゴルフ場
三浦半島観音崎地区でオープンせずに消滅した幻のゴルフ場

※参考文献・写真出典/「社史 安達建設グループ」

Now
防衛大学校
自衛隊の幹部自衛官となる学生が学ぶ防衛大学校の敷地に転用



ゴルフ場に「命」が吹き込まれるのは、そこがゴルファーたちの楽園となった時だ。
しかしそのゴルフ場が、出来上がっていたのにもかかわらず、オープンの日を待たずして消滅してしまうとしたら……。
今回紹介する小原台ゴルフ場に、それがまさに起きてしまった。
前回まで26回に渡り、ゴルフ場がかつてあった場所の今昔を取り上げてきた当連載だが、今回はゴルフ場を造った人々にとって、最も悔いの残るケースに思える。
そのゴルフ場は、神奈川県・三浦半島の風光明媚な高台に一時期、確かに存在した。
横浜から浦賀方面に向かい、横須賀を過ぎて海岸寄りに進んでいくと、開国後、最初に建設された洋式灯台として知られる観音埼灯台がある。
その裏手の丘陵、約30万坪が小原台。
ここに終戦から8年経った1953(昭和28)年2月、まずアウトの9ホールが完成した。
しかし開業を待たずして保安庁(防衛省の前身)に渡され、1955(昭和30)年から防衛大学校の敷地に転用された。
現在は自衛隊の幹部自衛官となる学生がここで学んでいる。
歴史に埋もれてしまった幻のゴルフ場。
その歴史をたどろうと五月晴れの某日、防衛大学校内をガイドに案内してもらえる「防大ツアー」に参加した。
頭上には抜けるような青空が広がり、薫風が頬をなでる。
眼前には東京湾が広がり、左から横浜ランドマークタワー、東京スカイツリー、幕張新都心が見渡せる。
眼下にはわずか6・5キロの幅しかない浦賀水道。国防を担う若者たちが学ぶには、絶好の環境であるのは間違いない。
2時間10分に及ぶツアーの中盤で訪れた資料館内に、ゴルフ場の歴史を示す1枚のパネルがあった。
そこには18ホールのゴルフ場を主軸とした国際ホテル、国際社交クラブ、野外劇場、テニスコート、ヨットハーバーが広がる一大リゾートタウン構想が描かれていた。
事の起こりは1948(昭和23)年9月、横須賀米海軍基地司令官デッカー大佐より太田横須賀市長に届いた一通の書簡だった。
その内容は「近々小原台は、接収解除になる。
就いては同地区を観光開発されたい」というものだった。
その話が安達建設社長の安達貞市に持ち込まれたのは、自然の流れ。
すでにGHQから依頼された小金井CCの復元工事を完了させ、米第一軍政部のシェフィールド司令官の要請を受けた京都GC上賀茂コースの建設でも実績を残したことで絶大なる信頼を得ていたからだ。
安達は、用地の提供は司令部および市当局が行ない、計画・実施・経営に関しては、同社が担当することで合意を成立させた。
しかし、1949(昭和24)年3月の工事着工後、次から次へとトラブルに見舞われる。
地元の農民と共産党員の反対、朝鮮戦争の影響などで何度も工事は中断。
9ホールがようやく完成したところで保安大学校(防衛大学校の前身)が発足し、その本校舎の候補地に小原台が選ばれる。
横須賀市議会も、保安庁の要請を受け入れてしまい、安達建設は窮地に追い込まれた。
安達建設側は1億3700万円の補償を求めたが、保安庁側は4500万円で譲らず、この額で決着。
なす術がなかった。
代替地として茅ケ崎市東海岸の神奈川県有地をあっせんされたのはせめてもの救いだった。
現在のGDO茅ケ崎ゴルフリンクスは、その用地の一部を使用している。
Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。