1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第29回は東京大学検見川ゴルフ場を紹介する。
Before
東京大学検見川ゴルフ場
縄文時代・弥生時代の遺物が発見された場所に、9ホールがオープン

参考文献:「佐藤昌が見た世界のゴルフコース発達史」(環境緑化新聞刊)、
「Choice241号」(ゴルフダイジェスト社刊)、毎日新聞、朝日新聞(1962年3月26日付)


Now
東京大学検見川総合運動場・セミナーハウス
サッカー、テニス、ラグビー、野球、 ホッケー、クロスカントリーが楽しめる 総合運動施設に……

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そのゴルフ場は、2000年の年月を超えた「縄文ロマン」が薫る場所に造られた。
千葉市花見川区にある東京大学検見川総合運動場内に「検見川ゴルフ場」ができる6年前の昭和22(1947)年。
敷地内の泥炭採掘場で、縄文時代の丸木舟が発見された。
それから4年後、この近くからハスの実3粒が発見され、翌年の昭和27(1952)年に植物学者、大賀一郎(おおが・いちろう)氏がそのうちの一粒の発芽に成功。
年代測定の結果、2000年以上前、弥生時代後期のハスであることが判明した。
さらにこのハスがピンク色の大輪の花を咲かせると「世界最古の花」として全世界から注目が集まり、米有力誌「LIFE」にも掲載された。
その後この「オオガハス」は国内外250か所に分根され、今も多くの人々の目を楽しませている。
その総合運動場内にゴルフ場建設案が持ち上がったのは、オオガハスのビッグニュースとほぼ同じ時期だった。
発起人には、当時の東大の矢内原忠雄総長ら官民の大物が名を連ね、昭和28(1953)年9月に9ホールのゴルフ場がオープンする。
その後18ホール(3891ヤード・パー63)に拡張され活況を呈したが、昭和37(1962)年になると風向きが変わる。
衆議院決算委員会で「東大側が総合運動場としての最初の目的を外れ、ゴルフ場に使っていること、ゴルフ場の収入を国庫に納めず法人、事業税を納めないこと、再三に渡る関係官庁の勧告を無視してきた」(毎日新聞夕刊=P86右下写真)ことが明らかになったのだ。
東大の茅誠司総長は「ゴルフ場は全廃し、大学が直接管理する」(同紙)とコメントするに至った。
このゴルフ場でプレーした人物がいる。
サッカー界の重鎮、現日本トップリーグ連携機構会長の川淵三郎氏だ。
「確か、大学がゴルフ場を持っていることが国会で問題になって、(1964年の)東京オリンピックを前にゴルフ場が運動場に変えられたんです。サッカー場が何面かできて、陸上競技場のトラックもできた。そこにサッカー協会が2000万円くらい寄付して、宿舎を建設し、日本代表の長期合宿が可能になった。ゴルフ場もショートホールとミドルホールが2つくらいで、3ホールくらいは残してあって、鳥かごの練習場もあった。練習ボールや貸しクラブもありましたね」
川淵氏もビギナーながら、合宿の空き時間にチームメイトたちとプレーを楽しんだという。
「ゴルフ場の廃止は37年4月28日で、ちょうど10年の寿命だった」(「Choice」 241号より)。
現在の名称は「東京大学検見川総合運動場・セミナーハウス」。
サッカー場5面、テニスコート8面のほかラグビー場、アメリカンフットボール場、野球場、ホッケー場各1面を備え、広大なクロスカントリーコースに足を運べば、ゴルフ場の面影を今もそこかしこに見つけることができる。
敷地内にはセミナーハウスもある。
東京大学の学生・教職員のための両施設だが、空きがあれば一般客の利用も可能だ。
Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。




