ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
1960年代、アーノルド·パーマーとともにゴルフをメジャーにしたジャック·ニクラス。
圧倒的な強さとトレードマークの金髪で 「ゴールデンベア」のニックネームでおなじみだ。
緻密で隙のないゲーム運びで数々のタイトルをものにした彼のこれまでの活躍と現在をお伝えしよう。
JACK NICKLAUS
メジャーで18勝を挙げ歴代1位の勝利数を誇るゴルフの帝王、J·ニクラス。
46歳で6勝目を飾ったマスターズでのこのシーンはあまりに有名だ。
メジャー18勝
46歳でマスターズ優勝の栄光
マスターズの始球式後のビッグ3の記者会見風景。左から故アーノルド·パーマー、ジャック·ニクラス、ゲーリー·プレーヤー。ニクラスは今でもゴルフ界のご意見番として強い発言力を持っている。
マスターズがなくなった4月も大忙しのニクラス
毎年4月の1週目に行なわれるマスターズは、1打も放たれることなく終わった。
大会が中止となったのは1943年、第2次世界大戦以来のことであるが、ジャック·ニクラスはマスターズが延期になっても大忙しの4月の日々を送っていた。
マスターズ6勝の彼は、いつもなら火曜の夜にクラブハウスでチャンピオンズディナーに参加し、木曜にはオナラリースターターとしてゲーリー·プレーヤーとともに始球式のティーショットを放ち、第84回マスターズの幕を開けていたはずだった。
彼はマスターズで最も多くの優勝を果たした「生きる」伝説だ。
1月に80歳を迎えたが、マスターズが11月に延期されたことでひっぱりダコとなった。ゴルフ·チャンネルのインタビューを受け、ESPNのいくつかのコーナーに登場し、さらにダン·パトリックラジオショーにも出演。
また、世界ゴルフ殿堂向けのポッドキャストにも参加した。
マスターズがなくても、何の問題もない。ジャック·ニクラスを呼んで、彼のすばらしい物語のすべてに浸ればいいからだ。
いつも彼は、1986年のマスターズ、メジャー18勝目、そしてPGAツアー最後の73勝目について質問を受けてきた。
46歳のときに最終ラウンドを7アンダーの65でフィニッシュして復活劇を見せ、6勝目を挙げた時の話も同様である。
彼は世界中の100を超える勝利を含むキャリアの中で、最も充実した勝利だったとよく話してきた。
なぜなら、彼自身がその勝利をまったく想定していなかったこともあるが、オーガスタナショナルで初めて彼のバッグを担いだ長男のジャック2世と喜びを分かち合うことになったからだ。
最終的にグレッグ·ノーマンとトム·カイトに1打差で勝利したが、ゴールデンベアは息子を抱きしめて涙を見せまいとした。
そのとき、彼は「僕にとって最も大切で忘れられない思い出の一つができた」と語った。
一人のチャンピオンゴルファーであり、コース設計家、試合のアンバサダー、夫、父親、祖父、そして釣り愛好家として、人生で本当にたくさんの素晴らしい思い出を作ってきた男の言葉である。
PGAツアー「メモリアルトーナメント」はニクラスがホストを務める大会。サインや写真撮影など、ファンサービスにも気軽に応じる。
アマチュア時代から比類稀なる才能を見せつけたニクラス伝説
13歳でオハイオ州コロンバスでNO.1
ニクラスは、幼い頃にゴルフの能力が並以上であることに気づいたが、父親のチャーリーが若い頃にそうであったように、あらゆるスポーツに秀でていたのでさほど驚くほどのことではなかった。
1953年のある秋の日、彼は8年生(日本の中学2年生に相当)の歴史の授業を受けているときに、自分がオハイオ州コロンバスで最高のゴルファーであることを知った。13歳だった。
彼はその日のことをはっきりと覚えている。
彼の教師だったヘレン·タナーは彼を祝福したが、しかし、ニクラスは自分がなぜ褒められているのか皆目見当がつかなかった。
ヘレンは、コロンバス地区のゴルフ協会の全ハンデが掲載されたリストを見ていた時、リストの一番上のプラス3のところに、ゴルフで上達するために長い夏の日々をサイオトCCで過ごした才能豊かな若者、ニクラスの名前を発見したのだ。
ニクラスは「それは僕にとってある意味、衝撃だったよ。思いがけないことだったからね。なんとなくゴルフがすごくうまくなり始めたなという感じはあったけど、でもそれほど深く考えてなかったんだ」と振り返る。
こうして人々は、彼が紛れもなく特別な存在だということを認識し始めた。
その夏、彼はオクラホマ州タルサのサザンヒルズCCで開催された全米ジュニアアマ(17歳以下の部)でデビューし、第4ラウンドに進んだ。
また、オハイオ州のジュニアタイトルで5勝しているが、その1勝目を12歳で挙げている。
15歳の時にサイオトでアマチュアのコースレコードタイの66をマーク。
その翌年には最年少でオハイオオープンを制し、ツアープロを含む強力な選手層を驚かせた。
1959年に全米アマチュアタイトルを2つ制覇したが、その1つ目に勝った時、父親は母親のヘレンに「私たちの息子は間違いなく生まれつきの偉大さを備えている」と語った。
2014年、ニクラス主催の「メモリアルトーナメント」で優勝した松山英樹。米ツアー初優勝をニクラスのお膝元ミュアフィールドビレッジで飾った。
人気者パーマーとヒール役のニクラス
その3年後の1962年、アーノルド·パーマーの故郷であるペンシルベニア州ラトローブからほど近いオークモントCCで開催された全米オープンでパーマーを打ち負かし、父親の予言を実現し始めた。
当時のパーマーは最強で、最も人気のある選手として他を圧倒していた。
ニクラスは、人気者を何度も倒したことで、たちまちあからさまに不評を買うことになった。
パーマーがいつものように勝てなくなったことで、ようやくニクラスはゴルフファンから高く評価されるようになったのである。
ニクラスのメジャー18勝という記録はゴルフ界の金字塔だが、彼にはコース設計家としてのキャリアもある。
300コース以上を設計してきたが、その多くは評論家から高く評価されており、各ツアーやメジャーの試合を開催している。
言うまでもなく、彼の最高傑作はオハイオ州ダブリンのコロンバス郊外にあるミュアフィールドビレッジGCだ。
ニクラスはPGAツアーの試合を地元で開催したいと考えていたが、今日ではメモリアルトーナメントは米ツアーでも最も人気のある試合の一つとなっている。
帝王の活躍を陰で支え、5人の子供を育て上げたバーバラ夫人。オハイオ州立大在学中に知り合い、結婚した。現在はチャリティ活動やトーナメント運営で夫のサポートをしている。米ゴルフ界のおしどり夫婦だ。
ジャック・ニクラス博物館より
愛妻とのチャリティ活動が最も大切なニクラスの今
議会名誉黄金勲章と大統領自由勲章は文民に贈られる最高位の勲章であるが、ニクラスはそれらを授与され、他にもゴルフ界に貢献してきた。
1968年には、PGAツアーの設立でパーマーに協力し、彼は欧州が19
1979年からライダーカップに参戦する際にも尽力した。
この動きがきっかけとなり、2年に1回開催される大会がゴルフ界で最大規模の大会の一つとなった。
ライダーカップとプレジデンツカップの両方でチームのキャプテンを務めた経験もある。
また、2016年にゴルフをオリンピック競技として復活させた立役者でもあった。
ニクラスはゴルフというゲームでやり遂げたことに誇りを持っているが、過剰に自己陶酔しているわけではない。
「ゴルフでの功績は、家族とともにやり遂げてきた功績ほどではない」
ニクラスは現在、家族のことに加えて、彼の妻バーバラと2004年に始めたチャリティ活動に大部分の時間を割いている。
ニクラス·チルドレンズ·ヘルスケア財団は、南フロリダの子どもたちの医療の必要性に取り組むことを使命として、これまで1億ドル超を調達している。
さらに財団は、オハイオ州の医療にも貢献している。
そのため、彼はあちこちを転々としているが、彼はそういう生活を気に入っている。
ちょうどマスターズが延期されたことで空いた時間に予定を詰め込み、その多忙な4月の日程を余すところなく楽しんでいるようだった。
ニクラスは次のように述べている。
「僕は引退したいという欲求がないんだ。ゴルフに関しては、特別な試合やトーナメントに参加して今も腕が落ちないようにしているよ……。財団については、まだ始まったばかりだが、ここまではすばらしい結果を収めている。たくさんの子どもたちを助けてきたし、バーバラ(妻)は財団を率いる人物として大変有能だ。おかげで人生が変わったよ」
何とすばらしい人生だろうか。
釣りが趣味のニクラス。以前はタイガー·ウッズとも釣り旅行に出かけたこともあった。
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
長年に渡り、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの遺作『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。