ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
1950年代から70年代にかけて活躍したビリー・キャスパー。
名前は知っていても、どんな人物だったのか今ひとつわからない人も多いだろう。
彼はパットの名手でメジャーチャンピオン。
実力はあるが、パーマー、ニクラス、プレーヤーのビッグ3の華やかさに隠れてしまった 一人のレジェンドを紹介しよう。
Billy Casper
ビリー・キャスパー(アメリカ)
1931年6月24日生まれ。2015年2月7日没。享年83歳。プロ転向1954年。PGAツアー通算51勝、賞金王2回。世界ゴルフ殿堂入り。
サンディエゴ出身で、2015年に享年83歳で亡くなったビリー・キャスパー。真面目で控えめな性格の持ち主で、敬虔なモルモン教徒だった彼は家族と信仰心を最も大事にしていた。
ビッグ3の全盛期に唯一活躍したパットの名手
1970年に「マスターズ」に優勝し、前年の優勝者、ジョージ・アーチャーからグリーンジャケットを羽織らせてもらっているビリー・キャスパー(左)。
ジャック・ニクラスに最も恐れられた男
『ビッグスリーと私』というあるゴルファーの自叙伝があるが、その著者のことをよく知らなくても、それは当然だろう。
なぜなら、このタイトルの「私」が示すビリー・キャスパーという人物は、PGAツアー史上、最も才能があり、成功した選手の一人にも関わらず、ゴルフ人生を通じて影の薄い存在だったからだ。
たしかにキャスパーは、3つのメジャータイトルを獲得しており、その事実は彼の偉大さを示す最大の試金石の一つに違いない。
なぜなら、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラス、ゲーリー・プレーヤーの全盛期に成功した選手はたった1人しかいなかった。
それがキャスパーである。間違いなく最高のパッティングの名手であり、いつもグリーンで長時間、パッティング練習をしていたことで知られている。
ニクラスはかつて、キャスパーについてこう語った。彼に立ち向かった大勢の挑戦者のうち「ビリー・キャスパーほど僕が恐れた選手はいない。あとにも先にもね」と……。
キャスパーは、PGAツアーで通算51勝を挙げており、1956年から1971年まで毎年1回以上優勝していた。
この連続記録を塗り替えたのは、17シーズン連続優勝の記録を持つニクラスとパーマーだけである(タイガー・ウッズは14シーズン、ダスティン・ジョンソンは13シーズン連続)。
キャスパーの能力を明確に示すデータで際立った記録は、1964年から1970年にかけて優勝した27試合だ。
ニクラスより2勝多く、パーマーとプレーヤーの優勝回数を合わせたものより6勝多い。
「静かに、手際よく、少しずつ、ビリヤードのハスラーがすべてのボールを連続でポケットに沈め、涼しい顔で皆の金を持ち去るように、ゴルフの歴史の中でビリー・キャスパーの歩みは繊細かつストイックすぎて正当に評価できなかった。実際、一般の人々はビリー・キャスパーのことを同世紀後半の他の偉大なゴルファーに比べても知らなかった人が多いはずだ。高く評価されたことはなかったが、間違いなく最高のゴルファーだ」とハイミー・ディアスは1996年に米国ゴルフダイジェストの記事に記している。
1979年の「ライダーカップ」ではキャプテンを務めた。ヘール・アーウィン、ラリー・ネルソン、トム・カイト、リー・トレビノらの姿も見える。キャスパーは過去、「ライダーカップ」には9度出場している。
ベン・ホーガンのように静かに手際よく狙いを仕留めるプロゴルフ界のハスラー
パットの名手として知られ、手首で弾くように打つパッティングスタイルは有名だった。
ベン・ホーガンとの出会いがプレースタイルに影響した
ウイリアム・アール・キャスパー・ジュニアは1931年6月24日にサンディエゴで生まれた。
ビリーと呼ばれることを好んだ優秀なアスリートだった。
4歳のときにゴルフを始め、野球よりゴルフを選択。11歳のときにサンディエゴカントリークラブでキャディとして働き始めたが、この決断が幸運を呼び込むきっかけとなる。
15歳のときに伝説の人物ベン・ホーガンに出会ったのだ。
ベン・ホーガンは、キャスパーのキャリアとその保守的かつ戦略的で手堅いプレースタイルに最も大きな影響を与えた人物である。
「僕がゴルフでやってきた多くのことは、ベン・ホーガンに由来する。彼はビリヤードの選手のように常に次のショットにつながるよう、戦略的にショットを放ったものだ」とキャスパーは2012年に出版した自叙伝に書いている。
彼は、1954年にプロ転向するまで、ゴルフの奨学金を受けながらノートルダム大学に通い、海軍で任務を果たしながらゴルフチームでプレーしていた。
彼はシャーリーという妻を持ち、11人の子を持つ父親になったが、そのうちの数人は養子に迎え入れた子どもたちだった。
1956年にカナダで開催された「ラバット・オープン」で初優勝を果たすが、これはパーマーがカナディアン・オープンでプロとして初勝利を挙げた1年後のことであった。
ハスラーのように冷静に、狙った獲物は逃がさない。この写真は米国のゴルフ誌用に撮影されたもの。
妻のシャーリーとオーガスタナショナルGCで。
真の実力者キャスパーを証明するもの
キャスパーは、水牛とカバを食べてアレルギーに対抗するという珍しい食事療法で有名だが(残念なことに、ゴルフの能力よりもそのことで有名だったようだ)、1970年の「マスターズ」では3度目のメジャー制覇を果たしており、そのときもプレーオフにもつれこんだ。
サンディエゴ出身の友人で長年のライバルでもあったジーン・リトラーとともに9アンダーの279タイでフィニッシュし、その後のプレーオフで5打差をつけてジーン・リトラーを破った。
その年、ゲーリー・プレーヤーは1打差の3位だった。
キャスパーは、1966年と1970年の2度、PGAプレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞したが、それよりもはっきりと彼の技量を示しているのは、ツアーの平均スコアが最も少ない選手に贈られるバードントロフィーを1960年代に5度授与されたことだ。
1961年から、「ライダーカップ」チームで米国代表として試合に8回連続出場したが、これは史上2番目に多く、20勝10敗7引き分けという記録も残している。
彼がマークした23・5ポイントは、米国の選手では最も高く、23ポイントを獲得したパーマーがそれに続く。
また、1979年には「ライダーカップ」チームのキャプテンも務めた。
さらに1983年の「全米シニアオープン」など、PGAツアーチャンピオンズで9勝を挙げている。
キャスパーは、1978年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしたが、2015年2月7日、ユタ州ソルトレークシティ郊外の自宅で心臓発作のため息を引き取った。
83歳であった。
2012年の「全米オープン」の表彰式に出席するビリー・キャスパー(右)。優勝はウェブ・シンプソン(中央)。
Photo/Getty Images
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
長年に渡り、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの遺作『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。