ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
ツアー最多優勝記録を樹立し、 ベン・ホーガン、バイロン・ネルソンと並び、 偉大なゴルファーとしてたたえられているサム・スニード。
2019年、タイガー・ウッズが日本開催の 「ZOZOチャンピオンシップ」で米ツアー通算82勝を挙げたが、これはこのサム・スニードと並ぶタイ記録である。 生前は「マスターズ」のオナラリースターターも務めていた彼の偉業と素顔をご紹介しよう。
Sam Snead
愛犬マイスターとともにカートに乗るスニード。
サム・スニード(アメリカ)
1912年5月27日生まれ。2002年5月23日没(享年89歳)。
米ツアー通算82勝を記録し、タイガー・ウッズとともにツアー最多優勝記録を誇る。1950年には年間11勝を挙げた。
メジャーで7勝を挙げているが、「全米オープン」では優勝していない。
米ツアー賞金王3回。世界ゴルフ殿堂入り選手。
「マスターズ」のチャンピオンズディナーの締めくくりはスニードのジョークで
おしゃれなハットがトレードマークだったスニード。
スイングは美しいが口は悪いスニード
サム・スニードはまぎれもなく、ゴルフ史上にその名が残る偉大なアスリートの一人であり、華麗この上ないスイングで知られている。
とても良識ある人物でありながら、闘争心あふれるゴルファーだった。
そして、年に一度の「マスターズ」のチャンピオンズディナーでは、非公開の場ではあったが、いささか品のないユーモアのセンスを披露したことでも知られている。
「マスターズ」の火曜日、オーガスタナショナルGCで行なわれる公式行事「チャンピオンズディナー」の締めくくりには、スニードのジョークが欠かせないが、彼のジョークにまつわる逸話は枚挙にいとまがない。
その中で、スニードのお気に入りで繰り返し語っていたのが、アイゼンハワー大統領にいかにレッスンしたかにまつわるジョークだ。
第二次世界大戦を戦った大統領に向かって、尻(ケツ)を突き出してスイングするようにスニードは言ったのだ。
大統領への口の利き方に気を付けろと言われたが、「だって、大統領にだってケツはあるだろう」と答えたという。
確かに、スニードには口が悪い部分もあったかもしれない。
とは言うものの、そのスイングは華麗であり、誰もが認める才能の持ち主だった。
パッティングフォームに特徴があり、パターを正面に構え、ボールを押し出すように打つ「サイドサドルスタイル」を採用。
運動神経抜群のサムはゴルフの虜に
1912年5月27日、バージニア州アッシュウッドで、サミュエル・ジャクソン・スニードは、父ハリー・スニードと母ローラ・スニードとの間に、6人兄弟の末っ子として生まれた。
父親は農業を営んでいたので、サムが家業の農作業を手伝ったり、小動物を狩ったりして、家計を助けてくれるだろうと期待していた。
ところがサムは生まれながらにしてスポーツ万能で、早くからアメリカンフットボールをしたり、野球チームで投手や外野手を務めたり、陸上競技部で走ったりしていた(スニードのタイムは100ヤードを10秒ピッタリだった)。
またテニスも得意。2メートル以上もあるドア枠のてっぺんに登るほどの運動能力と柔軟性も持っていた(彼は70歳を過ぎてもなお衰えを見せなかった)。
しかし、サムが最も得意としたスポーツはゴルフだった。
最初は、バージニア州ホットスプリングス付近のホームステッド・リゾートでキャディを務めたが、幼い頃は、よく靴も履かずにコースを回っていたそうだ。
しかし、ゴルフに初めて興味を持つようになったのは、兄のホーマーが農場でボールを打つのを目にしたときだった。
木の枝で作ったクラブと、ホームステッドのコースで見つけたボールを使って、生まれて初めてのゴルフに挑戦し、それ以来、サムはゴルフの虜になってしまった。
華麗でパワフルなスイング、巧みな技で、ツアー最多優勝記録保持者の座に今も君臨
自宅のトロフィールームで撮影に応じるサム・スニード。愛犬マイスターもカメラ目線。
ドライバーのフェース面の高さを計測。ウェッジを削るなどの調整も自分で行なっていた。
1993年「マスターズ」で始球式を務めるレジェンドたち。右からバイロン・ネルソン、ジーン・サラゼン、サム・スニード。左端は当時の「マスターズ」チェアマンのジャック・ステファン氏。
「ライダーカップ」出場のため、クイーンエリザベス号に乗船し、渡英。この当時は、米国人選手VS英国人選手(現在は欧州全域の選手)の戦いだった。左からロイド・マングラム、サム・スニード、チャールズ・ヒーフナー、ジョン・パーマー。
独学で身につけた、柔軟性の高い滑らかなスイング
サム・スニードは、レッスンを一度も受けたことがなく、スイングは独学で身に付けた。
スニードの素晴らしいスイングは、持ち前の柔軟性のおかげである。
柔軟性がもたらす、大きく流れるような動きのメカニズムが、いとも簡単そうに、とてつもない力を発揮する。
そのスイングから、「スラミン・サム(ひっぱたきのサム)」とか、単に「ザ・スラマー(ひっぱたき屋)」などのニックネームで呼ばれるようになった。
スニードは自分のスイングを「滑らかなスイング」と語っている。
「ゴルフボールに向かって正しくスイングできると、頭の中はからっぽ、体はリラックスしてくるのさ」
1930年、18歳の時に、スニードはホームステッドのアシスタントプロに昇格。
そして1935年にはウェストバージニア州のグリーンブライヤー・リゾートに移った。
1936年には、その額1万ドルとも報じられたビッグマネーをかけた試合で2勝を挙げる。
こうしてツアープロになる資金を手にしたスニードは、すぐに「ウェストバージニア・クローズド・プロ」で優勝し、プロとして成功を収めた。
これが、スニードが残したPGAツアー最多記録である82勝の最初の勝利である。
2019年にタイガー・ウッズが「ZOZOチャンピオンシップ」でこの記録に並んだが、スニードの名は今も残されている。
1952年「マスターズ」に優勝し、創設者のクリフォード・ロバーツ(右)とボビー・ジョーンズ(右から2番目)に表彰されるサム・スニード(左から2番目)。左はジャック・バークジュニア。
1959年、オーガスタナショナルGCで中村寅吉(右)と談笑するサム・スニード。
恵まれた体、パワー、技術でツアー最多記録を今も保持
サム・スニードは、同じ1912年生まれのベン・ホーガンやバイロン・ネルソンと対戦しながら、そのパワーとショットメイキングのうまさとでツアーの顔とも言えるゴルファーになった。
1937年には5勝、38年には8勝を挙げているが、初のメジャータイトル獲得は、1942年の「全米プロ」。
決勝でジム・ターネサを2&1で破ったのが最初だった。
スニードはメジャーで7勝を挙げているが、その内訳は、「マスターズ」と「全米プロ」でそれぞれ3勝、「全英オープン」で1勝だ。
「全英オープン」での優勝は、彼が2回目に出場した1946年のセントアンドリュース・オールドコースでのものである。
「全米オープン」では一度も優勝したことがなく、2位が4回と、何度も惜しいところで涙を呑んでいる。
ただ第二次世界大戦中、アメリカでは1942年~45年までトーナメントが中止され、メジャー勝利数を重ねることができなかった点は指摘しておいた方がいいだろう。
また、「ライダーカップ」は1939年大会が中止となったが、米国代表としては、合計7回、チームに選ばれ、10勝2敗1分という素晴らしい成績を残した。
米国チームのキャプテンを務めた1969年の「ライダーカップ」は、ジャック・ニクラスがトニー・ジャクリンの60センチのパットをコンシードして、引き分けに終わったことで有名である(米国がカップを防衛)。
スニードは、同大会初出場のニクラスがジャクリンのパットにOKを出したことに大層腹を立てたそうだ。
そのほかにも、賞金王3回、ツアーで平均ストロークが最も低かったゴルファーに贈られる「バードントロフィー」を4回受賞するなど、スニードはそのキャリアを通じて、さまざまな記録を残している。
1965年「グレーター・グリーンズボロオープン」で8勝目を果たした時の52歳10か月の年齢は、ツアー最年長記録。
そしてこの優勝が、自身最後となる82回目の優勝だった。
スニードは公式試合に585回出場しているが、そのうち358回でトップ10入りを果たしている。
グランドスラムを達成したジーン・サラゼンは、彼について次のように語っている。
「サム・スニードは、理に適ったスイング、パワー、がっしりとした体格、そして悪い習慣がないことなど、ありとあらゆる身体的特性を備えてゴルフに打ち込んだ唯一の人物だ」
スニードは1974年、当時ノースカロライナ州パインハーストにあった世界ゴルフ殿堂に、第1回の顕彰者として選ばれている。
そして2002年、90歳の誕生日を4日後に控えていたスニードは、脳卒中による合併症のため、バージニア州ホットスプリングスで息を引き取った。
つい1か月前、「マスターズ」で始球式を行なったばかりの出来事だった。
Photo/Getty Images
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
長年に渡り、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの遺作『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。