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【Legends of Golf Vol.19】キャシー・ウィットワース 米LPGAツアーで最多の通算88勝を記録した女子プロの先駆者

ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。

昨年のクリスマス・イブに亡くなった、女子ゴルフ界のレジェンド、キャシー・ウィットワース。
米男女ツアーを通して、通算88勝という最多勝利記録を持つ彼女は、キャリアグランドスラムは達成できなかったものの、女子ゴルフの隆盛に大いに貢献。
世界ゴルフ殿堂入りを果たしている。
そんな彼女の偉大な業績や、知られざる人柄を紹介しよう。

Kathy Whitworth

©LPGA

キャシー・ウィットワース(米国)
1939年9月27日生まれ。2022年12月24日、83歳で逝去。テキサス州モナハンズ出身で、LPGAツアー通算88勝は米男女ツアーで最多勝利記録。メジャー6勝。1981年、LPGAツアー史上、初めて生涯獲得賞金が100万ドルに到達した。

1962年、「ケリー・ガールズ・オープン」で初優勝。「AP通信アスリート・オブ・ザ・イヤー」を2度獲得するほか、数々の賞を受賞。

米LPGAツアーで最多の通算88勝を記録したキャシー・ウィットワースが83歳で急逝

©LPGA

もともとテニスプレーヤーだったウィットワースは、15歳でゴルフを開始。19歳でカリスマコーチのハーヴィー・ペニックに師事し、1958年にプロ転向した。

©LPGA

1965~1973年にかけて7回のLPGAプレーヤー・オブ・ザ・イヤーと8回の賞金女王を獲得したウィットワース。

米国最多の勝利数を収めたウィットワースの意外な記録

テキサス州フラワーマウンド近郊にある、トロフィークラブカントリークラブのダイニングルームからは、緩やかに起伏する丘陵と樫の老木の間を縫うように走る2つのコースが見える。
一方のコースはこのクラブで最も有名なメンバー、キャシー・ウィットワースにちなんで命名されている。
もう一方はテキサスゴルフ界の象徴、ベン・ホーガンが設計したコースだ。

ダイニングルーム内のガラスのショーケースの中は、LPGAで通算88勝し、プロツアー史上最多勝利を収めたキャシー・ウィットワースの記念品で溢れかえっている。
彼女は、ミッキー・ライトとともにゴルフ界で最も激しい争いを繰り広げてきた選手の一人だが、昨年の12月24日(土曜日)の夜、友人たちとクリスマス・イブを祝っているときに急逝した。
83歳だった。LPGA創設者のルイーズ・サガス氏は次のように述べている。

「ミッキーは最高のゴルファー。キャシーは、最大の勝者でした」

ウィットワースのキャリアは、1959年のルーキーシーズンを平均ストローク80・30、獲得賞金わずか1217ドルという成績で終え、プロゴルファーを辞めようかという状況を乗り越えて築かれた。

彼女にとって、LPGAツアーに参戦し始めたばかりの頃は、勝つなんてありえない、ましてや破られることのない記録を樹立することなんてないと考えるだけの根拠があった。
彼女の苦難の旅から得られる教訓があるとすれば、それは、好きなことをやり、それに全力を注ぎ、失敗から学べ、ということである。

彼女は次のように述べている。

「私がとびきり幸運だったのは、自分が何をしたいのかわかっていたこと。どれだけゴルフが好きだったかを、言葉になんてできない。誰もが15歳の時には、自分がやりたいことをわかっているものだと思ってたわ」

彼女が世代を超えて君臨しているのは、17年連続で毎年1勝以上するという偉業を成し遂げたからだ。
さらにウィットワースは通算88勝に加え、なんと93回も2位に入っており、1位と2位の獲得数は合計181回に達する。

金物店の末娘のゴルフへの情熱

約175㎝の強健な体格を持つウィットワースは、テキサス州西部の地図上では点にしか見えない小さな町、モナハンズで生まれた。
両親はジャルで金物店を経営しており、そこで3人娘の末っ子として育った彼女は、祖父のクラブを使い、エルパソ天然ガス社の従業員向けに造られた9ホールのコースでゴルフを覚えた。

彼女がゴルフについて語るとき、満ち溢れた情熱そのものが彼女を突き動かしてきたと言える。
「強風の中、2番アイアンでスライスをかけて打った、160ヤードのノックダウンショット」が池を越えてピンの右奥につき、ホリス・ステイシーを破った話をするとき、ずっと昔に放った1打について語る彼女の目は、まるで飛んでいるボールを見るように生き生きと輝いていた。 

ウィットワースが最初に師事したのはハーディ・ラウダーミルク(ジャルのプロ)だった。
彼はオースティンのハーヴィー・ペニックと友人で、ウィットワースが17歳のときに、彼女をペニックに紹介した。

彼女は次のように語っている。

「ハーディがハーヴィーと電話で話し、私が取り組むべきことや探し求めるべきものをハーヴィーが教えてくれたんだと思う。ハーディがいわば仲介役になってくれたわけね」

大好きなゴルフに情熱をかけ攻めのゴルフに徹した末につかんだ、破られることのない記録と名声

©Getty Images

1990年、ウィットワースは第1回「ソルハイムカップ」(欧州ツアーと米ツアーの女子プロによる対抗戦。2年に1度開催される)の米国キャプテンを務めた。写真中央の左は、欧州キャプテンのミッキー・ウォーカー。

©LPGA

初代米国キャプテンに就任したウィットワースは、米国を勝利に導いた。2回目もキャプテンを務めたが、欧州に敗北。

©LPGA

LPGAツアーで勝利数上位の2人。ウィットワース(右)は88勝で1位、ミッキー・ライトは82勝で2位。ともに175㎝以上の長身を誇る。

©Getty Images

1975年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしたウィットワース(左)。左からウィットワース、パティ・シーハン、ベス・ダニエル、ベッツィ・キング。

©LPGA

LPGAツアー「ボランティアズ・オブ・アメリカ・ノーステキサス・シュートアウト(現在の『アセンダント・LPGAベネフィッティング・ボランティアズ・オブ・アメリカ』)」でアンバサダーを務めていたウィットワース。インビー・パーク(左)は、同大会で過去2勝を挙げている。

プレッシャーから解放した両親からの一言

15歳からゴルフを始め、その2年後の1957年に「ニューメキシコ州女子アマ」で優勝。その翌年も同大会で優勝を果たした。 

同じくペニックに師事し、LPGAの試合で通算55勝を挙げたベッツィ・ロールズは、次のように振り返る。

「ミッキー(ライト)と私は、ニューメキシコ州のロズウェルで彼女とエキシビションをやった。彼女はまだ10代の未熟者で、ゴルフを始めたばかりだった。彼女の腕前はあまり大したことがなかったので、その後ツアー会場で彼女に会うことになろうとは思いもよらなかった。彼女はツアー転戦を通じてプレーを学び、驚くほど上手くなった」

しかし、プロ入り後は試合に出て経験を積んでも、試合には勝てなかった。
幸い彼女の父親と地元の実業家たちが年間5000ドルの資金援助を3年間行なってくれていた。

「あまりにも成績が悪くて、辞める寸前だったの。ツアーに3~4か月出て帰宅したとき、思ったのよ。『自分には資質がないんじゃないか』ってね。いつものようにキッチンテーブルを囲んで両親と話していたら、『まあ、3年あるんだから、ダメだったら帰ってきて、一緒に何かやればいい』って言われたの。それを聞いて、なんだかプレッシャーがなくなったわ」と語った。

その後彼女は、ノースカロライナ州アシュビルで開催された「ランド・オブ・ザ・スカイオープン」で初めて賞金を獲得した。

「(賞金は)30ドルだったわ。最下位だったけれど、(両親は)私がトーナメントで優勝したと思ったでしょうね」

控え目で、自分に厳しいウィットワースの原動力

しかし、1962年の「ケリー・ガールズ・オープン」で初優勝を飾るまで、ウィットワースはツアー3年半で2位を5回、経験することになる。
彼女は、いかにも彼女らしく謙遜して初優勝について次のように語った。

「実力で勝ったんじゃないわ。サンドラ・ヘイニーが最終ホールで3パットを叩いて私に勝利を譲ってくれたのよ」 

その年の後半に「フェニックス・サンダーバードオープン」で2勝目を達成。
ミッキー・ライトとの優勝争いだった。 

「最後の9ホールはミッキーと私の一騎討ちだった。ミッキーは私の後ろの組でプレーしていた。リーダーボードがなかったので、何打差かはわからなかったけれど、とにかくカップを狙っていくことにしたの。『勝ちたければ、逃げ腰になっちゃダメだ』と思って……」

こうして彼女は、4打差で勝利した。 

LPGA史上初の生涯獲得賞金100万ドル突破

翌年、彼女は8勝を挙げた。その33年のキャリアの中で、1シーズンに7勝以上したことが7回もある。
1981年、彼女はLPGAの選手として初めて生涯獲得賞金100万ドルを突破した。

ロールズは次のように語る。

「キャシーはとても聡明な人だった。彼女にとって、ミスは許されないことだったの。ミスをすると、自己嫌悪に陥っていたわ。彼女は一緒に遊ぶと最高に楽しくて、誰にでも親切な人だったけれど、自分にはとても厳しかった。そして、それこそが彼女の原動力だったのよ」

初優勝から、最後に勝利を飾った1985年の「ユナイテッド・バージニアバンク・クラシック」まで、ウィットワースは徹底的に攻め続けた。
「自分はプロゴルファーになる資格がないのではないか」と彼女が自問し続けていた話は有名だが、彼女が設定した基準は、他人には無理難題とも言えるものだ。  

彼女のプロゴルファー人生の終盤にキャディを務めたグレッグ・シェリダンは、次のように述べている。

「100ヤードの距離からは、彼女は直接カップインを狙っていた」 

ウィットワースがゴルフを始めたのは、35人の出場選手が7500ドルを競い合う時代だった。
選手たちは車で移動し、安宿に泊まったりホームステイをしたりしながら、ツアーの帳簿付けからスケジュール管理、プロモーションまですべて自分でやっていた。

「振り返ってみると、プロ入り後すぐに成功しなくてよかったのよ。時間を経て、私は準備ができたから」

スタイルよりも中身を重視してきたキャシー・ウィットワースは、同世代の他の誰よりも少ない打数でボールをカップに入れ、ゴルフ人生の偉大な勝者となったのである。

Text/ Ron Sirak
Photo/LPGA、Getty Images
Thanks to LPGA

Text/Ron Sirak

ロン・サイラク(アメリカ)

ジャーナリズム賞において、PGAオブ・アメリカ生涯功労賞のほか、LPGAメディア優秀賞を受賞。AP通信、米ゴルフ誌「ゴルフワールド」での執筆のため、メジャー取材は150試合以上にのぼる。

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