ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。
過去、陸上競技や野球、バスケットボールなど、あらゆるスポーツで活躍を遂げ
オリンピックで2つの金メダルを獲得したのちに、プロゴルファーに転向した女性がいる。
45歳の若さで夭折したベーブ・ザハリアスだ。
今回は彼女のゴルフの偉業を振り返るとともにアスリートとしての活躍も紹介しよう。
Babe Zaharias
彼女は運動能力だけでなく、裁縫の才能もあり、「裁縫選手権」で優勝した経験もある。ゴルフウェアなども自分で作っていたというからおもしろい。
ベーブ・ザハリアス
1911年6月26日生まれ。1956年9月27日没(享年45歳)。本名をミルドレッド・エラ・ディドリクソン・ザハリアスといい、テキサス州出身。ゴルフ、バスケットボール、野球、陸上競技などに秀でた女性アスリートで、1932年ロサンゼルスオリンピックでは陸上で金メダル2つ、銀メダル1つを獲得。その後ゴルフに転身し、プロアマ通算82勝。グランドスラムも達成した。女子で男子の大会に出場した初の選手。
オリンピック金メダリストはグランドスラムも達成
1937年、ニューヨークのロングアイランドで行なわれたチャリティイベントで、ティーショットを放つベーブ・ザハリアス。ベーブ・ルースとチームを組んで出場し、1万人の観客が集まったという。
運動能力ではダスティン・ジョンソンより上?!
これまで「ゴルファーの中で〝最高のアスリート〟は誰か?」についての議論は、遠い昔から盛んに行なわれてきた。
言っておくが、最高のゴルファーではない。最高のアスリートである。
動きが機敏で筋肉質、力強いサム・スニードは常に多くの票を獲得してきた。
また、ジャック・ニクラスも「アメリカの三大スポーツ」であるフットボール、野球、バスケットボールにも秀でたアスリートであったが、個人競技で優勝したいという意欲を満たすため、ゴルフを追求した。
アーノルド・パーマーもそうだ。スポーツ万能だったが、若い時にゴルフに恋をしてしまった。
ジム・フューリックは高校時代、3種類のスポーツ選手だった。そしてダスティン・ジョンソンは、今日のPGAツアーで最高のアスリートとみなされている。
しかしながら、今となってはめったに言及されることのない過ぎ去った時代の、ある選手が、おそらくは主役の座にふさわしいかもしれない。
それは、「ベーブ」ザハリアスとして知られている、ミルドレッド・エラ・ディドリクソン・ザハリアスだ。
「世界選手権」の男女それぞれの部で優勝した、ベン・ホーガン(左)とザハリアス。
オリンピック3種目でメダル獲得
ザハリアスは他の多くのプロよりも遅くにゴルフを始め、ツアーを戦ったのは9年間だけだったが、彼女は通算48勝を挙げ、1948年、1950年、1954年の「全米女子オープン」を含むメジャーで10勝した。
彼女は1950年に創設された「全米女子プロゴルフ協会」の13人の創設メンバーの一人であり、ゴルフや他のスポーツで男子選手と競い合った。
彼女は野球やソフトボール、ダイビング、水泳、ボウリング、バスケットボール、そして陸上競技が得意であったことが知られている。
ゴルフを含む数多くのスポーツの殿堂入りを果たすほどだ。
ザハリアスは1911年6月26日、テキサス州のポート・アーサーで7人兄弟の6番目として生まれたが、上の兄弟3人がノルウェーで生まれた後、アメリカで最初に生まれた子供だった。
「ベーブ」という愛称は、ベーブ・ルースにちなんで名付けられたと言われているが、彼女がよちよち歩きの時から「ベーブ」と呼んでいたのは母親である。
彼女の運動能力は、まさに神から与えられたものであり、若くして開花した。
10代でプロバスケットボールでプレーしないか、と勧誘され、高校を卒業することはなかったが、1932年の「ロサンゼルス・オリンピック」出場選手に選ばれ、やり投げの1投目で金メダルを獲得した。
また、80メートルハードルでも金メダル、走り高跳びでは銀メダルを獲得したのである。
著名なスポーツ記者のグラントランド・ライスはザハリアスをこう記した。
「とても信じられなかった!彼女のパフォーマンスを目の当たりにするまでは……スポーツの世界の中で、彼女ほど調和が取れた欠点のない筋肉や、完成された心身はないだろうと、やっとわかったよ」
男女の壁を取っ払い運動能力の高さを多種目で披露
バンカーにビール瓶を埋め、ティーアップしたボールを打つデモンストレーションを見せるザハリアス。メキシコ・アグアスカリエンテスで。
テキサス州ダラスの自宅で仕事するザハリアス。彼女はアスリートでありながら、保険会社の秘書も務めていた。
ザハリアスにサインボールをプレゼントするベーブ・ルース(左)。彼女が野球の試合で1試合に5本のホームランを打ったことから、当時のホームランバッターのベーブ・ルースにちなんで、「ベーブ」とニックネームがついた。
夫のジョージにロッカールームで足のマッサージを受けるザハリアス。夫はプロレスラーだった。
イギリスで開催される「ウェザーベイン国際トロフィー」の試合に出場するためロンドン行きの飛行機に乗り込む米国女子団。1番上がザハリアス。
ガンに冒されながらもメジャー制覇
彼女が初めてクラブを手に取ったのは1935年。
彼女が24歳の時であり、最初は試合で苦戦したものの、彼女の運動能力や粘り強さは群を抜いていた。
1938年、彼女は男子プロの試合「ロサンゼルスオープン」に出場して男子と競い、予選落ちしたが、試合中にプロレス選手のジョージ・ザハリアスと出会い、11か月後に結婚する。
1945年には最強のプロゴルファーの一人となり、男子トーナメント3試合(ロサンゼルスオープン、フェニックスオープン、ツーソンオープン)に参戦したが、それぞれのトーナメントで予選通過を果たした。
1946年の「全米女子アマ」と1947年の「全英女子アマ」においてアメリカ人で初めて両大会で優勝し、新たに歴史的な記録を塗り替えたのだ。
それから、彼女は1947年にプロ転向し、わずか1年と20日の間に10勝を挙げた。彼女にとって最高の年は1950年であり、この年、当時広く認められていた3つの女子メジャーである「全米女子オープン」「女子ウェスタンオープン」、そして「タイトルホルダーズ選手権」のすべてで優勝。
賞金女王に輝いた。彼女は1932年にAP通信社の「今年の女性ベストアスリート」に選出されたが、その後6回に渡ってこの名誉ある賞を受賞した。
そして彼女が結腸ガンと診断された1年後の1954年、3度目の「全米女子オープン」優勝を飾った。
彼女が12打差の通算3オーバー(291)でマサチューセッツ州ピーボディのセーラムカントリークラブで勝利したのは、ガン摘出手術からたった1か月後のことである。
アニカもウィも叶わなかった男子ツアー予選通過
1950年代初頭、ペブルビーチで行なわれたデモンストレーションで片足打ちを披露。ドライバーの飛距離は当時で250ヤードあり、ジーン・サラゼンなどの男子プロをオーバードライブすることもあったという。史上初の男子トーナメント出場者にもなった。
ザハリアスは、1932年「ロサンゼルスオリンピック」のやり投げで、世界記録を樹立し、金メダルを獲得した。
「テキサスA.A.U.陸上大会」の10種競技のうち、8種目で優勝。オリンピックへの出場を決めた。
1932年「ロサンゼルスオリンピック」の走り高跳びでも世界記録を樹立するところだったが、当時の「足から先にバーを越えなければいけない」というルールを破り、失格にはならなかったが、銀メダルとなった。
死の直前まで続けた試合出場とガン克服活動
1952~55年にはLPGAの会長を務めていたザハリアスだが、ガンが背中じゅうに広がっていたため、1955年に「全米女子オープン」で2連覇を達成することはできなかった。
しかし何とか8試合で戦うことはできたのだった。
彼女が出場した最後の2試合は、フロリダの彼女の自宅近くで開催された「タンパオープン」と、サウスカロライナ州の「ピーチブロッサムオープン」だったが、彼女は2試合とも優勝。
プロ・アマ通しての勝利数は通算82に達した。
彼女の自伝「私の辿ってきた人生」は1955年に出版されたが、最後の数か月、彼女は米国ガン協会の広報担当者も務め、ガン検診の普及とガンの研究の必要性を説いたのである。
最後は100ポンド(約45.4キロ)未満にまでやせ細ったザハリアスは、1956年9月27日、テキサス州ガルベストンにて亡くなった。
彼女は今日でもランニング、投てき、そしてジャンプ競技において個人でメダルを獲得した唯一のオリンピック選手として讃えられている。
そして過去、6人の女子プロが合計12回に渡り、PGAツアー(男子ツアー)で競ったものの、予選を通過したのはたった1人、「ベーブ」だけだった。
AP通信社は2000年、ザハリアスを「20世紀の最高の女性アスリート」と宣言した。
さらに2021年初頭、ドナルド・トランプ大統領から大統領自由勲章が彼女に授与されている。
Photo/Getty Images
Text/Dave Shedloski
デーブ・シェドロスキー
長年に渡り、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの遺作『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。