1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第8回は武蔵野カンツリークラブを紹介する。
Before
武蔵野カンツリー倶楽部「藤ヶ谷コース」
昭和7年頃の様子。藤ヶ谷コースは赤星六郎の設計によるものだ。
1924年、東京府多摩平山に「平山コース」が開場したが、2年後に閉鎖。同年、千葉県東葛飾郡に「六実リンクス」が開場し、1929年、隣接地に「藤ヶ谷コース」18ホールが開場。六実、藤ヶ谷の両コースで合計36ホールの日本最大のゴルフ場となった。
武蔵野カンツリー倶楽部「藤ヶ谷コース」の当時のクラブハウス。
左から名誉会員の朝香宮、千代寿、陳清水。昭和12年頃の1コマだ。
Now
海上自衛隊 下総航空基地
千葉県柏市にある海上自衛隊の航空基地。教育航空集団司令部、第3術科学校、下総教育航空群司令部、
第203教育航空隊、第203整備補給隊など多数の部隊が置かれている。写真は第3術科学校の入り口。
春には美しい桜が周囲を囲う合同庁舎。
昭和35年頃の基地の上空写真。うっすらとゴルフ場だった頃のレイアウトが浮かび上がって見える。
ゴルフを庶民のものに。
国内の14コースの中で、ゴルフの大衆化に先鞭をつけたのは武蔵野カンツリー倶楽部だった。
『日本のゴルフ100年』(日本経済新聞社刊、久保田誠一著)によれば、そのルーツは新宿区にある。
現在の山手線新大久保駅と高田馬場駅の間に「戸山ヶ原」という市民が集う「野外総合グラウンド」があった。
ここに1907(明治40)年の春ごろから、ゴルフクラブを手にした「鳥羽老人」が毎日姿を見せるようになった。
外国人がゴルフを楽しむ姿を見て、持病の心臓病を運動によって直すためにゴルフを始めたという。
その甲斐あって心臓病は1年足らずで完治。医師を驚かせたという。
この鳥羽老人を中心に戸山ヶ原GCが発足。
当時、できたばかりのゴルフ場を持つゴルフクラブとは比較にならない安値で入会を可能にしたため、入会希望者はたちまち100人を超え、7日後の13日、会員80名の参加を得て発会式を行なった。
しかしあまりに派手な動きをしたため隣接していた戸山ヶ原陸軍練兵場からにらまれ、ついには軍用地から締め出された。
ホームグラウンドを失った会員たちは関東第1号のゴルフ場・根岸GCにならって、競馬場の内側を借用しようとしたが、目黒競馬場は地代が高すぎ断念。
ようやく南多摩郡七生村(現在の日野市平山の平山城址付近)の雑木林5万坪(16万5000平米)を杉山又吉らから借りることに成功した。
設計は1918年「日本アマ」を制し、日本人優勝者第1号となった井上信。
1924年3月に造成工事が始まり、6月に3ホール、翌年5月に9ホールが完成した。
しかし資金が乏しくフェアウェイに芝を張れず、グリーンも砂交じりのサンドグリーンだった。
その後、手狭になったために拡張を計画したものの地形的に難しいとの理由から、1926(大正15)年、千葉県の六実(むつみ)に移転が決まる。
六実コースは1926年10月に9ホールが誕生し、翌年9月に18ホールが完成。
ようやく会員の夢が実現し、名誉会員には朝香宮、東久邇宮、賀陽宮、伏見宮妃殿下、特別会員に鳩山一郎、岩崎小弥太、大倉喜七郎、などが名を連ねた。
移転当初の会員はわずか100人だったが、2年後には700人までに増加。
六実だけでは狭いと、隣接する藤ヶ谷に22万坪(73万平米)の用地を確保し、赤星六郎設計の18ホールを拡張。
このコースは1931年の「日本プロ」、翌年の「日本アマ」、さらに「日本学生」などの舞台となった。
この結果、武蔵野CCは日本初の36ホールを併有したゴルフ場となった。
それだけでなく、会員数も1487人を有する日本最大のゴルフクラブとなったが、1941年に太平洋戦争が始まると、クラブの運命は暗転した。
1943年にまず60人近い陸軍兵が六実コースを占拠。
通信と探照灯を任務とする部隊の駐留地となった。
戦争が終わると開墾されて農地となったが、現在は海上自衛隊・下総航空基地となっている。
戸山から平山、さらに六実、藤ヶ谷と受け継がれたゴルフ場の命脈は、戦争によって絶たれてしまったことが何とも惜しまれる。
当時の記録や面影を残す写真は希少ながら、今回、柏市と海上自衛隊下総航空基地の協力により、誌面を構成できたことに感謝したい。
個人蔵 提供:柏市教育委員会 写真提供:海上自衛隊 下総航空基地 ※参考文献=「日本のゴルフ100年」(久保田誠一著、日本経済新聞社刊)、「JGA Golf Journal vol.65」(日本ゴルフ協会刊)、「柏人への道」第22回(千葉県柏市)、日野市通史編4(東京都日野市)
Text/Akira Ogawa
小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。