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【日本のゴルフ黎明期を支えた幻のゴルフ場】第11回「等々力ゴルフコース」

1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第11回は等々力ゴルフコースを紹介する。

Before

等々力ゴルフコース

写真提供/清流舎、世田谷区立郷土資料館

現在、等々力駅のある場所は、以前はゴルフ練習場だった(「秋・東横目蒲電車」より)。

写真提供/清流舎、世田谷区立郷土資料館

等々力ゴルフコースの案内図。総面積は2万5000坪で、この冊子が作られた当時は6ホールのパー3コースだった(のちに3ホールが加わり、全9ホールに)。練習場も完備しており、夜間練習の設備もあると書かれている。

Now

玉川野毛町公園

写真提供/清流舎、世田谷区立郷土資料館

今も古墳が残るかつてゴルフ場だった都内の公園

野毛大塚古墳が現存する玉川野毛町公園。
東急大井町線 等々力駅から徒歩10分。かつてゴルフ場だった場所に開設された公園で、野球場やプール(夏季のみ)、テニスコート、デイキャンプコーナーあり。
【玉川公園管理事務所】問い合わせ先:03-3704-4972

※参考文献=「ふるさと世田谷を語る野毛・上野毛」(世田谷区刊)「東京急行電鉄50年史」 写真提供/清流舎、世田谷区立郷土資料館

写真提供/清流舎、世田谷区立郷土資料館

公園内には、5世紀初頭に築かれたという、野毛大塚古墳が復元されている。

写真提供/清流舎、世田谷区立郷土資料館

昔、ゴルフ場があったことが偲ばれる、「ゴルフ橋」が今もある。

東京・世田谷区野毛の玉川野毛町公園には、5世紀初頭に築かれたとされる野毛大塚古墳が復元されている。
この時代における関東の「帆立貝形古墳」では最大級だ。墳丘は三段に構築されており、横から見るとケーキにも似た形状だ。
古墳の表面には葺石(ふきいし=高塚の盛土の上を覆う川原石など)が敷かれ、多くの種類の埴輪も出土している。
うれしいことに階段も設置されていて、10メートルの高さがある後円部に上ることもできる。

しかし資料によれば、この古墳に葬られた人物が武蔵国の南半分(東京都、神奈川県川崎市・横浜市北部)の首長たちの上に立つ大首長で、石棺は頂上から1メートル下に埋められていたと知り、その上を歩き回っていいものかと、少し気が引けた。
だが登ってみるとそこには短甲、剣などの武器や勾玉といった装身具など、出土品(現在、出土品の大半は世田谷区立郷土資料館に収蔵。
一部は東京国立博物館にも収められている)を説明するプレートも設置されており、多くの人が訪れているのがわかる。
古墳の上から四方を見渡すと、1600年前の風景が見える気がした。

鎌倉時代になると、この古墳は戦場における物見台の役割を果たす。
徳川時代には将軍の遊猟地に。明治の半ばになると石棺の上に祠が建てられ「吾妻社」として信仰を集める。
ふもとには茶店もでき、多くの人々が参拝に訪れた。

1922(大正11)年に東急目蒲線が開通すると、田園調布一帯が急速に発展。
1927(昭和2)年には大井町線も開通し、1930(昭和5)年には玉川村村長が耕地整理の大事業を開始した。
だが、住民は賛成派と反対派に別れ、激しく対立したという。

この頃、文部大臣・鳩山一郎氏がゴルフ場の設立を企画。東急の五島慶太氏が実施に移したと世田谷区発行の「ふるさと世田谷を語る野毛・上野毛」にある。
「ゴルフ場づくりの条件として、人夫やキャディにはこの土地の人々を使うことだった」とも書かれている。

1931(昭和6)年6月1日、8万2500平方メートルの敷地に広がるパブリックコース「玉川ゴルフコース(全6ホール)」と練習場がオープン。
3か月後、さらに3ホールが完成し、9ホールのゴルフ場となった。
開場時間は午前7時から午後9時までで、入場料は20銭。
グリーンフィーは平日1円、日祭日が2円。
練習料は3ダース入りの1かご50銭だった。貸クラブは8本セットで1日1円、1本あたり10銭のレンタル料がかかった。
レッスン料は30分50銭。キャディフィーは30銭だった。

コース側が発行したゴルフコースエチケット集は、横文字を交えた29項目に及ぶもので、非常によくまとまっている。
かなりのゴルフ通の手によるものと見て間違いない。

翌年の11月1日からは「等々力ゴルフコース」に改称。
その1週間前の10月23日からは、田園調布~等々カゴルフコース前および、等々力駅前間のバス路線も、営業が開始された。

しかし戦争の足音が迫りくる中、1939(昭和14)年10月にゴルフ場は廃止された。
その後、内務省防空研究所に買収され、高射砲の陣地となった。ゴルフ場の建物は空襲により焼失し、戦後は東京都公園課の管理となる。
さらに管理は住宅課へと移った。

今日、古墳の上から当時の地図を手に見渡せば、ゴルフ場のレイアウトもうっすらと思い浮かべることができる。
都心から消えてしまったゴルフ場が、将来よみがえってくれたら、日本のゴルフもさらに盛り上がってくると思うのだが……。

Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。

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