1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第19回は泡瀬メドウズゴルフ場を紹介する。
Before
泡瀬メドウズゴルフ場
かつては比嘉集落があった場所に、 太平洋戦争中、米軍が占拠した駐留軍用地があり、 戦後は泡瀬メドウズゴルフ場が存在した。
区画整理前
区画整理後
令和2年5月に撮影されたもの。もともとゴルフ場のあった場所には、医療福祉施設、複合型商業交流施設、健康・スポーツ交流施設、住宅施設という4つのゾーンが完成した。
Now
北中城村 イオンモール沖縄ライカム
マンションやイオンモールなどの商業施設も立ち並ぶ、区画整理後の様子。
平成25年6月から区画整理が行なわれた、北中城村。米軍のゴルフ場だった場所が、住民のための土地に戻った。
参考文献/「世界へ挑戦沖縄ゴルフ誕生と飛躍の歴史」(沖縄県ゴルフ協会・沖縄県ゴルフ倶楽部協議会編)
沖縄本島のゴルフ場第1号は、第二次世界大戦後間もない1948年、米軍基地の中で産声を上げた。
沖縄が占領された後、北中城村比嘉地区に置かれていたのが、琉球米軍司令部。
この地域は「地権者が300人余もいる場所だが、地元民が収容所から戻る前に、ゴルフ場用地に占有されていた」と『世界へ挑戦・沖縄ゴルフ誕生と飛躍の歴史』にある。
ここに9ホールのショートコースが誕生し「泡瀬メドウズ(草原)ゴルフ場」と名付けられたが、この頃はまだ軍人専用で、民間人への門戸は閉ざされたままだった。
特に泡瀬は司令部や将校クラブなどの指揮中枢が集中。米軍は絶えず有事に備え「補充部隊が一時的に駐留・展開できるような広い空間、グリーンベルト・エリアの確保」を義務付けていたという。
ゴルフ場はこの機能を持った軍事施設でもあったわけだ。
5年後の1953年、泡瀬メドウズは本格的なゴルフ場へのステップを上がる。
コース設計に当時第一人者の地位を築きつつあった井上誠一を招き、5680ヤード・パー70のコースレイアウトを完成させた。
しかし当時はまだフェアウェイに芝も敷かれておらず、雨が降るとぬかるんでしまうのが悩みの種。
サンドグリーンは全員がホールアウトすると女性スタッフが竹竿でスパイク跡をならしていたという。
そんな状況の泡瀬で1957年から約3年間、ゴルフの腕を磨いたのが、のちのメジャーチャンピオン〝スーパーメックス〟ことリー・トレビノだった。
筆者が昨年インタビューをした武田鉄矢さんは、レッスン番組でトレビノと共演。
カリフォルニア州パームスプリングスで1週間をともに過ごし、トレビノから直接、沖縄時代の話を聞いたことを明かしている。
米海兵隊の伍長だったトレビノは、ゴルフが縁で司令官と仲良くなり、炊事班からスペシャル・サービスに転属となり、ゴルフチームのメンバー入り。
日本人ともプレーして腕を上げ、フィリピンなどにも遠征し、部隊対抗のトーナメントではほとんど優勝した。
泡瀬にようやく本格的なグラスグリーンが完成した1960年、トレビノは海兵隊を除隊しプロゴルファーへの道を歩む。
8年後の「全米オープン」で優勝を飾った時、泡瀬メドウズのクラブハウスバーでテレビ中継を見ていたゴルフ仲間は「あのトレビノがメジャーチャンピオンになった!」と大騒ぎになったという。
1950年代になると、民間人もプレーできるようになる。
ただしもっぱら早朝ゴルフ。昼間は軍人や軍属が優先で何時間も待たされるため、誰もいない午前5時半ごろからプレーしていた。
1964年には「ウィルソン杯争奪ゴルフ大会」が開催され300人を超えるゴルファーが参加。
沖縄の「OKI」とアメリカの「AM」を合わせた「オキアム会」など日米の関係者合同のコンペも継続的に行なわれるようになった。
しかし、2006年4月に移設条件付きで返還することで日米が合意し、代替えの「TAIYOゴルフクラブ」が旧東恩納弾薬庫地区に建設され、泡瀬は2010年7月30日に閉鎖された。
今、跡地は大型ショッピングモールの「イオンモール沖縄ライカム」などの商業施設や住宅地に変貌を遂げている。
Text/Akira Ogawa
小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。