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【日本のゴルフ黎明期を支えた幻のゴルフ場】第25回「鳴尾ゴルフ倶楽部・ 浜コース」

1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第25回は鳴尾ゴルフ倶楽部・ 浜コースを紹介する。

Before

鳴尾ゴルフ倶楽部
浜コース

競馬場の跡地に設立されたコースは 横屋ゴルフアソシエーションが前身

写真提供:鳴尾ゴルフ倶楽部
鳴尾競馬場の写真。(写真:『鳴尾村史』より)。
『神戸新聞』に掲載された鳴尾速歩競馬会第1回の開催広告。明治41年6月19日に掲載された(写真:『鳴尾村史』より)。

Now

武庫川団地

5000世帯を超える、緑あふれる 大阪・神戸のベッドタウン

写真提供:㈱清流舎
かつて鳴尾ゴルフ・アソシエーションは、現在の武庫川団地前駅の近くに広がっていた。(資料提供:鳴尾ゴルフ倶楽部)

鳴尾ゴルフ倶楽部・浜コースの前身が、連載第6回に登場した横屋ゴルフアソシエーションであることは第7号で紹介した。
神戸ゴルフ倶楽部(以下、神戸GC)のメンバーであるW・J・ロビンソンらが尽力してこの横屋を完成させたが、土地所有者のA・H・グルーム(神戸GC創設者)が日露戦争後の恐慌に巻き込まれ、売却を余儀なくされてしまう。
行き場を失ったロビンソンは、横屋で唯一の日本人メンバーだった安部成嘉(横浜正金銀行神戸支店長)の力を借り、土地探しに奔走する。
その末に見つけたのが、総合商社の鈴木商店(双日などの前身)が所有していた鳴尾浜の土地だった。

ここには、阪神競馬場の前身である関西競馬倶楽部と、鳴尾速歩(はやあし)競馬場があった。
この2つが合併したことで空いた速歩競馬場の跡地に目を付けたロビンソンが、4000円を投じて鳴尾ゴルフアソシエーション(以下、鳴尾GA)を設立した。

設計はロビンソンとA・スマートと安部が担当。
のちに、日本人プロゴルファー第1号となる福井覚治らが造成にあたり、9ホールを完成させる。
しかしこの鳴尾GAは6年と短命だった。
原因は、鈴木商店が工場建設を計画したことだったが、その方針が変更され、コースはそのままの状態で放置されてしまう。

それを見た鈴木商店の社員たちが、ロンドン支店長の高畑誠一に頼み込み、クラブ10セットを調達。
しかし、いざコースに行ってみると雑草が伸び放題でプレーできない。
そこで野焼きの要領で火を放った。

エライことになった。
火の勢いは想像以上で、消防車が出動。関係者にはきついお灸がすえられたが、野焼きの方は効果絶大で、春にはコンディションも良好となる。
旧コースの3ホールが使え、1920年の初夏に「鳴尾ゴルフ倶楽部(以下、鳴尾GC)」が誕生。
入会金20円で月会費2円。
有志38人による、関西初の日本人設立のクラブが産声を上げた。

翌1921年暮れに9ホールが完成し、1922年には関西では初、国内では根岸に次ぐ、芝グリーンも誕生。
初の女性会員も入会する。
第1号は文献収集家である西村貫一の妻・まさだった。

1924年、さらに9ホールを増設し、日本初となる18ホールのリンクスが誕生したが、1927年に鳴尾GCはまたもや波乱に見舞われる。
鈴木商店が倒産し、土地が系列企業の浪華倉庫に売却されると、さらに川西飛行機へと転売された。
未売却部分に9ホールのコースを再建し、別の場所に18ホールを新設することを決めたが、移転先の土地探しは難航。
そこに東谷村の村長・野原種次郎が助け舟を出しことで用地がまとまり、猪名川コースが建設された。
これが現在の鳴尾GCである。

猪名川が完成すると、鳴尾の会員は浜コースと猪名川コースの両方を利用できる至福の時代を経験。
だが日中戦争が勃発すると、川西航空機が工場拡張の必要に迫られ、立ち退きを要求。
1939年10月1日、浜コース19年の歴史に幕は降ろされた。

かつてゴルファーたちの笑い声と歓声がこだました浜コースの跡地には、武庫川団地が立ち並ぶ。
その中には公園も広がり、ゆったりとした時間が流れていた。

Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。

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