1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第10回は砧ゴルフ場を紹介する。
Before
砧ゴルフ場
かつて安田春雄も勤務していた砧ゴルフ場。1940年、紀元2600年の記念事業として東京府が6ヶ所の大緑地の設置を決めたうちの一つが、砧緑地で、約10年間だけゴルフ場として利用された。
砧ゴルフ場開設当時のクラブハウス。ゴルフ場廃止後は、レストハウスとして活用された。
砧緑地には1955年に、砧ゴルフ場がオープン。これは、開設当時の航空写真。東急が建設し、都に寄付した上で、経営を受託していた。1966年にゴルフ場は廃止され、公園が拡張された。
Now
砧公園
かつて防空緑地、ゴルフ場だった場所が、家族ぐるみで楽しめる公園に
住所:東京都世田谷区砧公園1-1
電話番号(砧公園サービスセンター):03-3700-0414
施設:軟式野球場兼競技場、小サッカー場
HP:https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index004.html
現在、ゴルフ場の跡地は「ファミリーパーク」と呼ばれる広場になっているほか、南端の部分は東名高速道路の用地となっている。
1986年、クラブハウスの跡地付近に、世田谷美術館が開館した。
Photo:公益財団法人 東京都公園協会、清流舎
撮影協力:世田谷美術館
春には約840本のソメイヨシノやヤマザクラが咲き誇り、都内有数の桜の名所として有名な世田谷区の砧公園には、もう一つのセールスポイントがある。
24万6000平方メートルに及ぶ、広大な芝生だ。
園内地図には、こんなフレーズが添えられている。
「見渡す限りのみどり。東京23区内でも、芝生の広がりが際立っているのが砧公園です。もとはゴルフ場だったので、こんな公園が出来ました」。
ここに砧ゴルフ場があったのは1955年12月5日~1966年4月15日までのわずか10年あまり。
東京急行電鉄(以下東急電鉄)がこのゴルフ場の経営に乗り出した経緯については、『砧公園』に収録されているので転載しておく。
「債権者(東急電鉄)は、戦前、駒沢及び等々力にそれぞれゴルフ場を経営していたが、債務者(東京都)と内務省に強制買収された。戦後、国民生活の向上によって従前とかく一部特権階級のスポーツという偏見でみられたゴルフも、急速に大衆の中に普及してきた。斯界の草分けである債権者は、都内近郊に大衆のためのゴルフ場を開設すべく、候補地を積極的に探していたのである」
東京都側も、公園の前身である砧緑地を都民が娯楽利用できるよう、計画を練っていた。
しかしそのためには敷地内の貸付農地の返還に伴う離作補償が必要で、当時の都の財政は、そこまで手が届かない状態にあった。
そこに東急電鉄から離作補償を解決するという条件で、ゴルフ場の建設と管理の申請が舞い込んだ。
これを受け、都は建設省に砧ゴルフ場の設置、および経営に関する見解の照会などの手続きを踏み、1954年11月の都議会で砧ゴルフ場の建設寄付受領と経営に関する契約が議決を得た。
こうして都は1955年1月5日、東急電鉄に寄付受領の許可を与えた。
東急電鉄は早速、耕作者と離作補償の折衝を開始。
5か月ですべて解決し、同時にゴルフ場の設計も完了。
11月末にはすべての工事が終了し、12月3日、東京都は東急電鉄から「砧ゴルフ場施設」を寄付受領した。
その2日後に、晴れてゴルフ場の公用が開始された。
砧ゴルフ場の練習場で働くアルバイトの中に、日本ゴルフ殿堂入りプレーヤー・安田春雄の顔もあった。
安田は中学時代にここで師・中村寅吉と出会い、19歳でプロテストに合格。安田は言う。
「200ヤードの立派な練習場があった。そこに球拾いのアルバイトが10人くらいいたが、私だけがプロになり、従業員として雇われたんです。パー5とパー3が2つずつある、パー36の9ホールが面白く作られていました。プレー代が安いから1日500人は来てましたね」。
確かにその盛況ぶりはすごかったようだ。安田が在籍していた頃の1
958年と1959年のコース入場者数は、13万を超えている。
1964年の東京五輪を境に大都市は開発が進み、道路も整備されていく。
その翌年、東京都側は「より広く都民の利用に供する施設を作る」ことを理由に砧ゴルフ場を廃止する方針を固めた。
だが、東急側は東京都側の申し入れを拒否し、東京地裁に「妨害禁止仮処分」の申請を行ない、これを東京地裁が処分相当と認め、仮処分を決定。
これに東京都側が異議申し立てを行ない、両者は「砧ゴルフ場」をめぐり裁判で争うこととなった。
だが、和解が成立し、東急側はゴルフ場施設の一切を明け渡すこととなった。
安田は「東名高速がゴルフ場の6~8番にかかることになり、ゴルフ場が6ホールになってしまうことが、(東急側が)存続を断念する原因だった」と当時の裏事情を明かした。
参考文献:「砧公園」(石内展行・板垣修悦著、公益財団法人東京都公園協会発行)
Text/Akira Ogawa
小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。