• 国境や人種を超えたスポーツの力とゴルフの愉しさをすべての人に。
  1. ホーム >
  2. 世界のゴルフ通信 >
  3. マスターズチャンピオンのベルンハルト・ランガーと
    メル...

マスターズチャンピオンのベルンハルト・ランガーと
メルセデスベンツGクラスの共通点?!

ベルンハルト・ランガー
1985年、1993年の2回、「マスターズ」で優勝しているベルンハルト・ランガー。

Text/Eiko Oizumi
Photo/Mercedes Benz

1982年、「マスターズ」初デビューを飾った、メルセデスベンツ契約選手のベルンハルト・ランガー(64歳)。1985年、1993年に「マスターズ」2勝を飾り、今年で40回目の出場となるが、そんな彼の経歴とほぼ同じくして、メルセデスベンツのオフロードカー「Gクラス」も約40年の時を経て、今もなお老若男女に愛されていいる。ランガーはこのたび、メルセデスベンツ契約アーティストのリア・アブカヤン氏がデザインを施した、Gクラスのカスタムカーが授与された。

「このようにすばらしいデザインを施された車を頂くことができ、とても嬉しいし、光栄だ。私は今までGクラスに乗り慣れているが、1982年にマスターズで初めてプレーした時には、既にGクラスは存在していたんだ。それ以来、私もこのGクラスも忠実であり続けると同時に、時とともに進化し続けてきたんだ」

「このGクラスは、私にとってスーパーカーというだけではなく、このような創造性豊かな車を見ることでワクワクする車。感謝しているよ」

 メルセデスベンツは、マスターズの公式パートナーを務めて今年で15年目を迎える。メルセデスベンツ契約プロには、昨年の「全米オープン」チャンピオンのジョン・ラームもいるが、ラームもランガーも、世界ランク1位を極めた欧州勢のトッププロ。ランガーやGクラス同様、時が経っても色あせず、年々進化を遂げ、究極を求め続ける不屈の精神は、ジョン・ラームにも受け継がれている。

アトランタを拠点とする、メルセデスベンツ契約アーティストのリア・アブカヤンがデザインしたGクラスのカスタムカー。ランガーの経歴(世界で119勝、シニアツアーでグランドスラム達成など)も描かれている。
ドイツのレジェンド、ベルンハルト・ランガーは、今年で「マスターズ」出場40回目迎える。64歳になった今もなお、米チャンピオンズツアーで第一線で戦い、2020~2021年賞金王。

「ベルンハルト・ランガースペシャルインタビュー」

――1982年に24歳で「マスターズ」デビューを飾り、今年で40年目を迎えますが、初めてオーガスタナショナルにきた時のことは覚えていますか?

緊張したのを覚えているよ。全てが新しいことばかりで、その当時欧州ツアーで5〜6年はプレーしていたけど、それでもオーガスタほどのグリーンを経験したことがなかったからね。こんなにアンジュレーションがあるグリーンも初めてだったし、こんなに速いグリーンも初めてだった。球離れが早いから、どうやってストロークすればいいか、馴染むまでに時間がかかったよ。
これまでの40年間はすばらしいものだった。こんなに時間が早く過ぎてしまうとは……。1982年、私はドイツ人で初めてオーガスタの地を踏んだプロだったからね。


――その当時、英語はどうでしたか?

今ほどのレベルじゃなかったね。でも18歳で欧州ツアーに参戦して、その頃は誰1人としてドイツ語を話している人は、ツアーにいなかったから、どこにいっても英語を話さざるを得なかったんだよ。だから英語を早く覚えることができたんだ!


――1981年に欧州ツアーの賞金王になり、「ライダーカップ」でプレーしましたが、1982年にはアメリカでもすでに有名だったんですか?

実は1982年当時は、アメリカではほとんど知られていなかったんだ。ヨーロッパのゴルフというものも知られていなかった。その頃は欧州の選手がアメリカの試合に招待されるということはほとんどなかった。唯一、「マスターズ」に出る方法といったら、欧州ツアーの賞金王になることしかなかったんだよ。


――1982年に出場した時は、36ホールで3パットを11回もして、1打差で予選落ちをしましたが、予選落ちをした時には、一晩中このグリーンのことを考えて眠れなかったですか?

そんな感じだったね。何時間か練習して、グリーンをなんとか把握しようとしたけど、でも調整するのは難しかった。


――1982年に予選落ちをして、その後1985年に「マスターズ」で優勝。何か劇的にわかったことでもあったんですか?

もちろん!1982年に初めて出て、それで教訓を得たよ。1985年は楽しんでプレーできていたし、「マスターズ」の一部になったような、世界のトッププロの1人になったような気がしていたくらいだ。だから優勝するチャンスはあると思っていた。1985年にはコースのいろんなことを学び、72ホールで3パットは3回しかしなかったよ。


――1985年の最終日はセベ・バレステロスと同組でプレーしていましたが、一緒に回りやすかったですか?それともピリピリした感じでしたか?

回りやすい、という必要はないけど、私たちはお互いによく知ってたし、私もセベも突出していたから、週末になるとよく一緒に回って優勝争いをしていたものだ。1984年7月にセベと私はセントアンドリュースでの「全英オープン」の最終日、最終組から2組目で一緒に回っていたけど、そこでセベが優勝して、あの有名なガッツポーズを繰り出したんだ。そしてその9ヶ月後、「マスターズ」で一緒に回ったんだよ。私とセベはいろいろな意味でまったく逆のタイプで、彼は感情を剥き出しにするタイプだったけど、一方私は感情を表に出さないタイプだった。でも成績はお互いにとてもよかった。最終ラウンドでは特にセベを気にすることはなく、自分のゲームをし、ベストを尽くしただけだ。


――日本の松山英樹が「マスターズ」チャンピオンになったが、彼の去年のパフォーマンスで印象的なことはありますか?

ヒデキは間違いなく、今、世界のトッププレーヤーの1人だ。そしてどんどん良くなっている。彼はとてもすばらしいボールストライカーで、パッティングもすごく良くなってきている。だから間違いなく、また優勝争いをするだろうね。彼の優勝は日本にとってすばらしいこと。ヒデキは昨年、素晴らしいプレーをしたけど、今週は彼がチャンピオンズディナーのホストを務めるから、おいしい寿司が楽しみだよ。


――タイガーがもし今週出たら、優勝争いをすると思いますか?

タイガーはとても特別な選手だし、普通とは違うから、優勝争いをするだろうね。勝つのは難しいかもしれないけど、リーダーボードには名前を連ねることはできるだろう。「マスターズ」は彼の好きなトーナメントの一つだし、ここにいるのが好きなんだ。それに彼が優勝した最後のメジャーもここだし、交通事故後にカムバックしたことを、ここでみんなに見せたいだろうね。


――昨年度で、6度目のチャンピオンズツアー(シニアツアー)の賞金王に輝きましたが、たくさん50代の選手もいる中で、64歳のあなたが賞金王になれて、誇りに思いますか?

ここ2年くらい、非常に強いシニアルーキーが登場したよね。アーニー・エルス、レティーフ・グーセン、フィル・ミケルソン、ジム・フューリック、KJチョイ、マイク・ウィア……。たくさんのゴルファーたちがシニアツアー入りして、すぐに優勝しているから、私のような者にはそんな選手たちがいるなかで優勝するのは大変なんだ。いつまでこのように成功し続けられるかわからないけど、健康を保ち、自分の思ったようなスイングができるようにする必要があるし、いろんな面で練習をし続けなければいけない。技も持っていないといけないし、いろんな傾斜地からも打たないといけない。バンカーショットをコントロールし、アプローチもうまくないといけない。そして感情もコントロールしないとダメ。成功するには、たくさんのことがうまくいかないと難しいね。

日々、トレーニングや練習に励むランガー。ショットの精度や小技のテクニックはシニアツアーでも群を抜いている。

関連する記事