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【世界のゴルフ通信】From Asia サウジアラビアがアジア女子ゴルフ界に進出

あのサウジアラビアが欧州女子ツアーを支援

©Perfomance54

昨年の11月、サウジアラビアのロイヤルグリーンズGCで開催された「アラムコ・サウジ・レディースインターナショナル」(欧州女子ツアー)のチーム戦の優勝者たち。左から、カサンドラ・ホール、ミッシェル・トムソン、エミリー・ペデルセン、アマチュアのマット・セルビー。

 

©Perfomance54

アラムコは、サウジアラビア王国の国有石油会社で、保有原油埋蔵量、原油生産量、原油輸出量は世界最大。欧州女子ツアーと手を組み、「アラムコ・チームシリーズ」を世界4都市(ニューヨーク、ロンドン、シンガポール、サウジアラビア)で開催する。

 

サウジがアジアの女子ゴルフ界に進出?

男子のアジアンツアーのスケジュールは依然として未定だが、女子ツアーはシンガポールで2試合開催されることが決まっている。

セントーサゴルフクラブは現在、LPGAツアー「HSBC女子選手権」(4月29日~5月2日)開催に向け、準備中だ。
また、ライオンシティは4大会で構成される「アラムコ・チームシリーズ」の3試合目のイベント会場として名前が挙がっている。

「アラムコ・チームシリーズ」は欧州女子ツアーの大会で、賞金総額は約1億円。
第1戦はニューヨークで5月27~29日に開催され、その後、ロンドン(7月8~10日)へと移り、シンガポール(10月7〜9日)へ。
それから11月4~7日にサウジアラビアのロイヤルグリーンズゴルフ&CCでシーズン最終戦が開催されるのだ。

4人1組で競い合い、各選手は54ホールをそれぞれプレーする。
各キャプテンはNFLやNBAと似たようなドラフト制度を通じて1人のツアープロを採用できる。
他のツアープロは無作為に選出され、全チーム1人のアマチュアを含めなければならない。
そして、優勝チームの賞金は3名のプロで等分される。

ゴルフ・サウジや他のサウジアラビアのパートナーとともに、サウジの国有石油会社アラムコ社が、今日の欧州女子ゴルフを大いに支援しているのだ。
アラムコ社のマーケティング、営業および供給企画部門の副社長であるアハメド・A・アルサベイ氏は、次のように語る。

「アラムコはサウジアラビアにゴルフを取り入れるための主要な役割を果たしており、女子ゴルフへの支援を通じて男女平等を促進し、未来の女性スター選手たちのための舞台を作ることを目標にしています」

 

中国のカリスマコーチ死去

中国のカリスマコーチ、ピーター・タンが死去。張連偉、梁津萬(リャン・ウェンチョン)らも指導を受けたことがある。


中国人プロゴルファーのパイオニア

張連偉、梁津萬、フォン・シャンシャン、リ・ハオトンら中国人プロのゴルフ界での活躍はよく知られており、21世紀を迎えた頃から、中国は世界のゴルフにおいて重要な位置を占めるようになった。

しかしながら、ピーター・タン氏の貢献なしでは彼らの今の活躍はなかっただろう。
実際、プロゴルファーにもなれなかっただろうし、ゴルフを始める機会を得ることもなかったかもしれない。

タンは4人のプロゴルファー兄弟のうちの長兄だったが、ゴルフ界では最も有名で、彼のゴルフの指導法は高い評価を得ていた。

 

ショートゲームが得意で、1979年「香港PGA選手権」で優勝したP・タン。

 

タンに課せられたタスクと中国ゴルフの成長

1984年にアーノルド・パーマー設計の中山温泉ゴルフクラブがオープンするのに先立ち、タンは競技に出場できるような強い選手を育てるため、地方に住む若者たちの中から逸材を発掘する任務を任された。
1990年に北京で「アジア競技大会」が開催されたが、そこで優勝争いできるくらいのレベルの選手を育てるためである。

タンは1983年後半、三郷高校に向かい、高校生たちにゴルフのレッスンを行なった。

子どもたちは休み時間に校庭で円陣を組み、タンはその円の中でゴルフスイングの動きを見せた。
そして子どもたちに、「今、自分が何をしていたのかわかったか?」と尋ねた。
さまざまな答えが返ってきたが、「ホッケー」と「釣り糸を投げる動き」というのが最も多い回答だった。
誰も「ゴルフ」という言葉すら聞いたことがなく、もちろん、クラブを振っているのを見た者もいなかったのだ。

タンはその事実にくじけることなく、オーディションを進めた。
子どもたちに彼が見せた動きを真似するよう求めたのだ。
目利きのタンは慎重に彼らの動きを観察し、敏捷性や体の動きをチェック。
少しでもゴルファーとして通用しそうな子供達を見出したのだ。
タンはその日の視察に基づき、18名の少年少女を選抜して中山温泉ゴルフクラブに入会させ、彼の指導のもとでトレーニングを始めた。

タンのチームは劇的に上達し、1986年初頭には全メンバーが常に中山で90切りを果たしていた。
最も優秀な選手たちには、男女アマチュア選手権に出場するための香港旅行が与えられた。
1986年後半、上位4名の男子選手たちは、ソウルで開催された「アジア競技大会」のゴルフ競技で中国代表選手となった。

4年後に北京で開催された1990年「アジア競技大会」では、男女チームともに見事な戦いを見せた。
彼らは惜しくもメダルには手が届かなかったものの、中国のスポーツ当局者の上役たちに対してゴルフは取り組む価値があり、中国人選手たちも優れた成績を残せるスポーツであるという、十分な証拠を見せたのだ。

タンの指導の下、アマチュアやプロのランキングで名を残すようになった選手にはファン・リシャーやラム・ショウルといった女子コンビがいる。
男子ではザン・ウェンジュンとショウ・チョンハンが最初から最も活躍していたが、欧州ツアーとアジアンツアーで中国人選手として初めて優勝した張連偉と梁津萬もまた、タンに指導を受けた選手である。
梁津萬はタンを「中国のゴルフコーチのゴッドファーザー」であると語った。

タンは控えめで気取らない人柄で、スポットライトを浴びたいというような人間ではなく、裏方であり続けることに満足していた。

1949年生まれのタンは、香港GC(以下、HKGC)のオールドコースに隣接した村で育てられた。
彼は1960年代半ば、弟たちと同様、ゴルフ場のキャディとして自身のゴルフ人生をスタートしたのである。

所属プロであるジョー・ハードウィックの指導の下、タンは1969年にアシスタントプロの道へと進み、翌年彼は香港プロゴルファー協会の設立メンバーとなった。

タンはショートゲームのうまさに定評があり、「ワールドカップ」に8回、香港代表選手として出場した。
彼は1976年の「香港オープン」で5位に入り、1979年には「香港PGA選手権」で優勝を果たした。
またタンは、中国初のナショナルゴルフコーチとして、そして中国共産党の趙紫陽元総書記の個人コーチとしても名を残している。

HKGCのキャプテン、クラレンス・ルンは、「ピーター・タンはゴルフのパイオニア。
みんなから高く評価され、彼の功績は名を残すに値するもの。彼の名前はゴルフ発展の代名詞であり、彼のレガシーが生き続けるのは至極当然のことだ」と語っている。

 

Text/Spencer Robinson

スペンサー・ ロビンソン
(シンガポール)

ゴルフライター、ブロードキャスターとしてシンガポールを拠点に活動。

アジアゴルフインダストリーフェデレーションの最高コミュニケーション責任者。

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