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第10回「日本プロゴルフ殿堂」
倉本昌弘、日陰温子らが殿堂入り

Text/Eiko Oizumi
Photo/日本プロゴルフ殿堂

左からJGTO青木功会長、日本プロゴルフ殿堂・松井功理事長、JLPGA小林浩美会長。

 1月25日、都内ホテルにて「日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者 記者発表会」が行なわれ、【レジェンド部門】井上清次氏(故人)、【男子プレーヤー部門】倉本昌弘、【女子プレーヤー部門】日陰温子の3名が殿堂入りすることになった。

 会見には、日本ゴルフツアー機構(JGTO)の青木功会長、日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)の小林浩美会長、日本プロゴルフ殿堂の松井功理事長が出席。「日陰さんは、飛ばないが曲がらない。ショートゲームがうまく、人気者でした。テレビ東京でレッスン番組に出演されていた。倉本さんはゴルフに自信を持っており、ルールにも精通していた」と松井功理事長は語った。

 現在は「プロゴルフ殿堂」として、顕彰者をプロゴルファーに限定しているが、今後はコースデザイナー、メディア、その他ゴルフ界に貢献し、活躍した人物にも範囲を広げていく予定があるという。

 なお、顕彰式典は3月8日、ジャパンゴルフフェア会場(パシフィコ横浜)にて行なわれる。

【レジェンド部門】井上清次(1915年9月16日生まれ〜1992年5月9日没)
神奈川県出身。子供の頃に生家近くの程ヶ谷カントリー倶楽部でキャディに従事し、ゴルフの道に入る。キャディ仲間には、同い年の中村寅吉がいた。1935年にプロ入りし、相模カンツリー倶楽部所属時代の1938年に「日本プロ」で決勝に進むが、戸田藤一郎に敗れた。1942年「関東プロ」で初優勝。戦後は1951年に相模CC開催の「日本プロ」で勝ち進み、決勝で陳清水を下して優勝した。
その後、岐阜カンツリー倶楽部に移籍。1964年に開場した岐阜関カントリー倶楽部に造成時から関わり、終生をその地で過ごした。
 岐阜関CCでは長男の幸一(1984年「東北クラシック」などツアー2勝)や永久シード選手の森口祐子(2018年度日本プロゴルフ殿堂入り)ら多くのプロを育てた。
*主な戦歴/1952年「日本プロ」、1942年、1951年「関東プロ」優勝。
1969年「関西プロシニア」、1990年「関西ゴールドプロシニア」優勝。

【女子プレーヤー部門】日陰温子(1954年4月23日生まれ・69歳)
岩手県出身。中学卒業後に集団就職のような形で上京後、一度故郷に戻った後に武蔵カントリークラブに再就職して、ゴルフを始める。1974年、20歳の時にプロテストに合格し、1980年「ヤクルトミルミルレディース」で初優勝。1982年には米女子ツアーの予選会を通過して5年間、春先を中心に米国でプレー。最高位は4位だった。日本に専念した1987年には6勝を挙げ、大迫たつ子らと激しく賞金女王争い。最終戦で大迫に逆転されたが、自己最高の賞金ランキング2位に入った。ゲーム運び、小技の巧みさには定評があり、「日本女子オープン」では1982年、1992年の2勝と、2位が2回など、大舞台で存在感をアピール。「いすずレディース」では同一大会5勝の偉業を成し遂げている。1990年代には現役のプレーヤーでありながら、大学の客員教授や、非常勤講師としてゴルフの授業を受け持つという異色の二刀流でも注目を集めた。ツアー通算18勝。

【男子プレーヤー部門】倉本昌弘(1955年9月9日生まれ・68歳)
広島県出身。ジュニアの頃から卓越した成績を残し、日本大学時代は空前絶後の「日本学生選手権」4連覇を達成。「日本アマ」では3勝を挙げ、1980年「中四国オープン」をアマチュアで制した。1981年プロ入り。1982年「全英オープン」4位は、今なお同大会の日本選手歴代最高順位として残っている。同年の「日本プロ」では、初出場で優勝。1992年にはプロ入り後25勝に到達し、永久シードを獲得。1993年には米ツアーでもプレー。2003年「アコムインターナショナル」初日に国内ツアー競技初の59をマークし、通算30勝目を飾った。シニアでも存在感を示し、国内シニアツアーで2度の賞金王に輝くなど、通算8勝。欧州シニアでも優勝している。プレー以外でも、日本ゴルフツアー機構(JGTO)の設立に携わり、日本プロゴルフ協会会長を約8年務めるなど、プロゴルフ界の発展に尽力してきた。レギュラーツアー30勝(「日本プロ」2勝を含む)、「日本シニアオープン」2勝など、シニアツアー8勝。シニアツアー賞金王2回。

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