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【日本のゴルフ黎明期を支えた幻のゴルフ場】第16回「六郷ゴルフ倶楽部 」

1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第16回は戸山ヶ原ゴルフ場を紹介する。

Before

六郷ゴルフ倶楽部

写真提供:大田区

戦前は「六郷ゴルフコース」と呼ばれていた「六郷ゴルフ倶楽部」は、多摩川にかかる現在の「六郷橋」のあたりにあった。1932年、東京側に18ホールの本格的ゴルフコースが開場した。

写真提供:大田区

戦後、都から河川敷の占有許可を受けた大田区が、六郷ゴルフ倶楽部を開場。1964年の東京オリンピックをきっかけに、コースは再び一般大衆への開放の対象となり、大田区多摩川緑地運動場として認可された。しかし、一時係争中のため、ゴルフができない時期もあった。これは、1968(昭和43)年に大田区長から出された注意書き。

写真提供:大田区
※参考文献=「社史安達建設グループ110年の歩み」(安達建設グループ社史編集委員会)
「日本のゴルフ100年」(久保田誠一著、日本経済新聞社)東京ゴルフ倶楽部100年史(一般社団法人東京ゴルフ倶楽部)

Now

六郷ゴルフ倶楽部(ゴルフ練習場)

※写真/清流舎

皮肉にも1964年の東京オリンピックがゴルフ場を総合スポーツ施設に変えた

多摩川の河川敷にある、開放的な練習場は、かつては18ホールの本格的ゴルフコースとして開場。ゴルフの大衆化の先駆けとなった。現在は大田区多摩川緑地運動場として整備されている。

※写真/清流舎

六郷橋の欄干から撮影した練習場の風景。江戸時代より旧東海道の要所として栄え、「六郷の渡し」が置かれていたことでも知られている。橋の上には渡し舟をイメージした舟形のモニュメントが。

※写真/清流舎

ゴルフ練習場だけでなく、サッカー場、野球場、テニスコートなども整備されている。

東京・神奈川間を流れる多摩川にかかる、現在の六郷橋あたり。
のちに数々の名門ゴルフ場を建設する安達建設が、その第一歩を踏み出したのがここだった。

1931(昭和6)年の暮れ、東京側の河川敷に「六郷ゴルフコース」を建設する計画が、安達貞市のもとに持ち込まれた。
旧知の新宿・武蔵野映画館主で丸通社長の市島亀三郎氏からの話は「(河川敷の)使用権を持っているのは山口県選出の衆議院議員・吉原月香氏と、区議会議員の黒井直良氏及び利根川久衛氏の3人だが、10万円位の金がいるので貴君も一口乗らないか。
5人で10万円できるとよい」(『社史安達建設グループ110年の歩み』より)というものだった。

しかしこの話、年が明けて重大な局面を迎える。
「正月の5日朝、市島邸へ行ったところ『先日の金は3人の年越金に使用され、借金の手形が入っており、困ったことになった』と言われた。
咄嗟に〝この金は戻るまい〟しかし事業はやらねばならぬ。仕方がないので父に話して追加として5千円出してもらい、難関を突破しようと決心。
安達建設㈱の前身である安達商会が六郷ゴルフ場建設というゴルフ場建設の第1歩を歩み始めた」(同)。
安達商会の前身は、父が明治時代に創設した「安達幸三郎商店」。
1929(昭和4)年に安達商会に社名変更し、芝の育成も始めた。ゴルフ場や競馬場に芝を納入していた会社が、本格的にゴルフ場建設へと乗り出したわけだ。

当時、ゴルフはまだ一部の貴族と富裕階級の娯楽としか思われていなかったため、安達はまず電車に吊り広告まで出して大衆化を図ることからスタートした。
しかしまったく反響がない。そこでクラブ形式として会員を募集する。
それには経験のある支配人と、顔の広い募集担当者も必要になる。
そこで東京ゴルフ倶楽部の森村市左衛門理事長を通じ、支配人を務めていた岡本忠雄氏を六郷の支配人として招いた。

かくして1932(昭和7)年、六郷ゴルフコースが誕生する。
日本初の河川敷ゴルフ場である岡山の吉備ゴルフクラブ(後の岡山霞橋ゴルフ倶楽部)に遅れることわずか2年。
吉備GCは当時まだ6ホールだったが、こちらは5580ヤード・パー68という本格的なコースだった。
駒澤から移転し、六郷と同じ年に開場した東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの、1935(昭和10)年当時のグリーンフィーは、平日5円、日祭日10円だったと「東京ゴルフ倶楽部100年誌」にある。
一方、六郷ゴルフコースのグリーンフィーは、オープン当時平日が東京GCの5分の1。1円でプレーできた。
日祭日も4分の1の2円50銭と激安で、都心からわずか30分の好立地ということもあり、ゴルフの大衆化に貢献した。

河川敷ゴルフ場の宿命で、コースは台風が来る度に濁流に飲み込まれた。
冠水で9ホールに縮小された末の1942(昭和17)年、ついに総合運動場へと形を変えた。
前出の「安達グループ110年の歩み」にも、繰り返される冠水に「これほど口惜しいことは、なかった」という貞市翁の嘆きが掲載されているが、一方で自信も得て、安達グループはゴルフ場の建設工事や復旧作業を次々に請け負い、成功させていった。

1957(昭和32)年には「カナダカップ」(後の「ワールドカップ」)で日本が優勝し、第一次ゴルフブームが到来。これが追い風となり、18ホールの『六郷ゴルフ倶楽部』を開場させた。
多くのゴルファーが押し寄せたが、1964(昭和39)年の東京オリンピックは、かつての総合運動場に回帰する機運を呼ぶ。
河川法が改正されたことも重なり、ゴルフ場は大田区多摩川緑地運動場に再転換されてしまった。

現在、ゴルフ場の面影は同名の練習場である「六郷ゴルフ倶楽部」に残されるのみとなっている。

Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。

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