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【世界のゴルフ通信】From Asia 香港ゴルフ界のレジェンド、イギリス人のジョー・ハードウィックが91歳で天国へ

香港ゴルフの発展に大きく貢献したイギリス人が91歳で天国へ

1932年生まれのイギリス人、ジョー・ハードウィックは、香港ゴルフ協会を設立し、香港ゴルフクラブのヘッドプロを30年以上にわたって務めた。

香港ゴルフクラブで30年勤務したレジェンド

香港ゴルフ界の伝説的な存在であり、20世紀後半のうちの30年間を香港ゴルフクラブ(ファンリングクラブ)と共に歩んできたジョー・ハードウィックが、91歳で亡くなった。
広く「ジョー・ザ・プロ(プロのジョー)」として知られ、イギリスおよびアイルランドPGAの名誉会員であるハードウィックは、その輝かしいキャリアの中で、イングランド、インド、そして特に香港の何千人ものゴルファーの人生に影響を与えた。

インドのロイヤル・カルカッタゴルフクラブで5年間勤務した後、ハードウィックは1965年8月に当時のロイヤル・ホンコンに入社した。
彼は1995年3月31日に引退するまで、そのクラブに在籍したが、彼の引退は、世界でも有名なゴルフクラブの一時代の終わりでもあった。

退職までに、ハードウィックは香港で約7万2000回のレッスンを行なったと推定され、これに加えて以前の職場で2万5000回以上のレッスンを行なったと考えられている。
彼の有名な生徒の中には、3人の香港知事が含まれており、さらにボブ・ホープやイギリスのコメディアンであるジミー・ターバック、ブルース・フォーサイス、F1チャンピオンのナイジェル・マンセル、イングランドのクリケット選手のコリン・カウドリーなど多くの著名人とも交流し、一緒にプレーした。

海外遠征にも積極的だったハードウィック

2017年当時のハードウィック。晩年は、ロンドンとポルトガルを行き来する生活を送っていた。

彼はまた、「香港オープン」には25回以上出場し、最高成績は1972年の25位。
彼の一番の思い出は、1971年の第3ラウンドで「全英オープン」5勝のピーター・トムソンと同組で回り、67をマークしたことだった。

また海外では、「ワールドカップ」に香港代表として5回出場し、最後に出場したのは1976年にパームスプリングスで開催された時だった。
彼は10年後にナショナルチームに復帰し、シンガポールで行なわれた「アルフレッド・ダンヒルカップ」東部予選ラウンドで、ヤウ・スイミンとアレックス・タンとともに香港代表チームに選ばれた。

また1987年には、ゲーリー・プレーヤー、アーノルド・パーマー、ボブ・チャールズ、ニール・コールズなどとともに、ターンベリーで初開催された「全英シニアオープン」に出場している。

香港PGAの設立に貢献
香港のゴルフの父

香港PGA会長であり、LIVゴルフの解説者を務めるドミニク・ブーレ氏。©LIV GOLF
1987年には「全英シニアオープン」に出場し、ゲーリー・プレーヤー(右)とも交流した。

公共ゴルフ施設の建設を声高に支持したハードウィックは、1969年の香港PGA設立の立役者でもあった。
当初は5人の会員しかいなかったが、現在は200名近くの会員が所属している。

かつてアジアンツアーでプレーし、現在はLIVゴルフの解説者、香港PGA会長を務めるドミニク・ブーレ氏は、「ジョーは香港ゴルフ界におけるパイオニアであり、私や他の若いプロたちにとって非常に大きな存在でした。彼は常に非常に親切で、時間を惜しまず、私たちを励まし、信念を与えてくれました。私は彼にいつも感謝しています」と語った。
香港ゴルフクラブの会員やスタッフからも愛され、約30年勤務したが、香港GC・ファンリングクラブ周辺の村の若いキャディたちにとっても父親のような存在だった。
ハードウィックは、彼らにゴルフを始めるよう奨励し、上達するための道を提供したのだった。

1971年のロイヤルバークデールでの「全英オープン」期間中、ハードウィックと仲間たちがサウスポートの中華レストランで食事をしていた時のこと。
「こんにちは、ハードウィックさん」と、給仕に来たウェイターに声をかけられたが、そのレストランのスタッフの中には、ファンリング付近の村出身の移民で、短期間、ロイヤル・ホンコンでキャディをしていた者もいたのだった。

今日、香港のプロゴルファーは「香港PGA選手権」では〝ジョー・ハードウィックトロフィー〟をかけて戦い、「香港オープン」で予選通過したクラブプロ全員に、〝ジョー・ハードウィックカップ〟が授与される。

ハードウィックはイギリス・ニューキーで生まれ、医師の息子だった。
彼は10代前半からゴルフに夢中になり、1953年4月1日にプロ転向。
イングランドのクンビーヒルGCで腕を磨き、その後、アシスタントプロとしてインドのロイヤル・カルカッタに移る機会が訪れた。
1960年までに彼はヘッドプロになり、香港ゴルフクラブに呼ばれる1965年半ばまでその職に従事した。

ハードウィックは以前にも香港を訪れたことがあった。
彼は初期のアジアンツアー(当時は極東サーキットとして知られていた)に参加した50人以上のゴルファーの一人であり、サーキットの1試合が香港で行なわれ、1964年にプレーしている。

「12か月後に私が専属のプロとして戻ることになるなんて、考えもしなかった」と、彼は振り返った。
彼はそれが短期的な移住とは考えていなかったが、香港が30年間、自分の拠点になるとは想像していなかったのである。

1995年にファンリングを去る際、ハードウィックは「歴史と伝統に彩られた有名なクラブでプロになれたことを誇りに思う。私は常にファンリングの新メンバーに、クラブの伝統を守る重要性を説明しようと努めてきた。ゴルフをすることだけがゲームの全てではなく、スポーツマンシップ、誠実さ、クラブスピリットがはるかに重要であることを伝えたかったのだ」と述べた。

シャーリーさんと結婚し、ニコラとジョアンという2人の娘の父親のハードウィック。
彼が香港に着任した時、ジョアンは生後2か月だったが、彼女はジョジョとして知られ、父親の足跡をたどり、クラブでティーチングプロになった。
彼女は今でもそこでレッスンを行なっている。

ハードウィック自身は、香港を離れた後、ロンドンとポルトガルのアルガルヴェを往復する生活を送り、80代までゴルフを続けた。
ハードウィックの逝去を受けて、現在の香港ゴルフクラブのキャプテンであるアンディ・カク氏は、「ジョーはこのスポーツをコミュニティに広め、ゴルフの知名度を高めるために多大なる貢献をしてくれた。今日は、香港ゴルフにとって信じられないほど悲しい日となった。非常に人気があり、勤勉なプロだったジョーは、彼を知る人全員から非常に尊敬されており、クラブの偉大な人物の一人だった」と語った。

Text/Spencer Robinson

スペンサー・ ロビンソン
(シンガポール)

ゴルフライター、ブロードキャスターとしてシンガポールを拠点に活動。

アジアゴルフインダストリーフェデレーションの最高コミュニケーション責任者。

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