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【Legends of Golf Vol.17】グレッグ・ノーマン LIVゴルフで話題の人となったレジェンドの栄光とゴルフ界への影響力

ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。

狙った獲物は逃さない「シャーク」のようにアグレッシブなプレーが身上の、豪州のレジェンド、グレッグ・ノーマン。
最近ではPGAツアーと対抗するLIVゴルフのCEOとして、悪の根源のように語られることも多いが、世界で約100勝を挙げ、世界ゴルフ殿堂入りも果たしている、偉大な人気プロゴルファーだ。
彼の華麗なゴルフ人生と、私生活についてご紹介しよう。

Greg Norman

©Getty Images

グレッグ・ノーマン(豪州)
1955年2月10日生まれ(67歳)。ホワイトシャークの異名を持ち、欧州ツアー14勝、米ツアー20勝(永久シード選手)、メジャー2勝など世界で約100勝。世界ランク1位を、331週保持した記録をもつ。世界ゴルフ殿堂入り選手。ワイン、アパレル、不動産販売やレストラン、ゴルフ場設計ビジネスを行なうほか、最近ではLIVゴルフのCEOを務め、サウジの新リーグ「LIVゴルフ招待」を発足させた。

PGAツアーに対抗するLIVゴルフを設立
一躍話題の人となったノーマンの過去の栄光とゴルフ界への影響力

©LIV GOLF

今年からサウジ資本を背景に「LIVゴルフ招待」を開催している、LIVゴルフCEOのノーマン(中央)。右隣はフィル・ミケルソン。

©Eiko Oizumi

サウジの政府系ファンドCEOのヤシール・アル・ルマイヤン氏(左)や、ゴルフサウジCEOのマジェッド・アル・ソロル氏(右から2番目)とともに第1回「LIVゴルフ招待・ロンドン」の表彰式に出席するノーマン(右)。

豪州のレジェンド
PGAツアーに対抗するLIVゴルフを創設してリベンジ

グレッグ・ノーマン(67歳)は、知らない人はほとんどいないほどの成功を収め、ゴルフ界を制覇したが、最近では、世界的に定評ある、すでに確立されたツアーの全てと肩を並べるビッグマネーツアーの先頭に立って、ゴルフ界を再構築するビジネスに携わっている。

ノーマンは競技ゴルフをやめて久しいが、今年の6月にイギリスでスタートした「LIVゴルフシリーズ」のCEOを務めており、今もなお、その競争本能を公の場で発揮している。

サウジアラビアの政府系ファンドの支援を受けたLIVゴルフは、ゴルフ界のトッププレーヤーや有名選手に多額の契約金を支払っており、ゴルフ界の主流であるPGAツアーを食い物にしている。

ノーマンは、プロゴルファーの報酬を上げることに熱心だが、LIVシリーズを運営する彼の努力は、1990年代にPGAツアーのライバルとなる「ワールドツアー」を立ち上げようとして失敗した、PGAツアーに対する個人的な挑戦だと見るゴルフ関係者もいる。

他のツアーからトッププロを誘致するという行動で、ノーマンの評判は地に落ちたが、それはさておき、ノーマンがゴルフの歴史上、最も優れたゴルファーの一人とみなされるべきことに間違いはない。
彼は長い間ゴルフ界を席巻してきたが、メジャー大会では残念な挫折を味わうことも幾度とあった。

世界を席巻し約100勝達成のホワイトシャーク

野心的で、カリスマ性があり、そして最高の才能を持つグレゴリー・ジョン・ノーマンは、現代で最も成功した人気ゴルファーの一人で、331週間にわたって世界ランキングのトップに君臨。
世界中で約100勝を挙げた。ノーマンは、並外れたパワーと正確さを持つティーショットでゴルフコースを攻める、爆発力のあるプレーヤーで、その攻撃的なプレースタイルと衝撃的なブロンドヘアーから、「グレート・ホワイト・シャーク」というニックネームを授かった。
キャリアの初期に、この自信に満ちたオーストラリア人がメディアで紹介されたとき、彼はサメのいる海で何度か泳いだことがあると言っていたのを思い出す。

数々の栄光とメジャーでの悲運

1955年2月10日、オーストラリアのクイーンズランド州マウント・アイザで生まれたノーマンは、幼い頃はクリケットとラグビーに秀でていた。
しかし、15歳の時に母トイニからゴルフを教わったノーマンは、ジャック・ニクラスのベストセラー教本 『ゴルフ・マイウェイ』を読み、18か月以内にスクラッチゴルファーとなり、天職を見出したのだ。2つのゴルフ場で1年間アシスタントを務めた後、21歳でプロに転向し、1976年に南オーストラリア州アデレードで開催された「ウェストレイクス・クラシック」でトーナメント初優勝。
その翌年、ヨーロッパツアーに転向し、スコットランドの「マルティニ・インターナショナル」で優勝したのだった。

世界ランク1位に331週君臨
強くてカッコいい世界中から愛された人気者

©Getty Images

金髪をなびかせ、甘いマスクと小気味いいショットが印象的なノーマンは、日本でも人気があり、ビールのCM にも登場した。日本では3勝。ロングヒッターとしても有名だった。

©Getty Images

アーノルド・パーマー(右)、ジャック・ニクラス(右から2番目)とともに、1990年の「マスターズ」でプレーするノーマン(左から2番目)。

©Getty Images

豪州のヒーローだったノーマンに少年の頃から憧れていた豪州のアダム・スコット(左)。ノーマンが勝てなかった「マスターズ」で、豪州人選手初の優勝を遂げた。

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現在、LIVゴルフでも親密な関係を築いているノーマン(左)とセルヒオ・ガルシア(右)。20代の頃は、ノーマンの長女、モーガン・レイさん(右から2番目)と交際していたこともあった。

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2008年には、元テニスの女王、クリス・エバート(右)さんと再婚。だが、15ヶ月後には離婚している。

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ノーマンの2人目の妻で、元キャビンアテンダントのローラさんとの間には2人の子供がいる。ローラさんは2006年に離婚し、慰謝料105ミリオンドル(約150億円)を受け取っている。

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2010年11月、インテリアデザイナーのカーステン・クトナーさんと再婚。「プレジデンツカップ」のパーティにも2人で出席したことがあった。

1981年、ノーマンは「マスターズ」に初出場し、4位に入賞して世界中のゴルフファンにその存在を印象付けた。
マスターズや他のメジャーでも侮れない存在になることを予感させたものである。
2年後にPGAツアーに参加し、1984年の「ケンパーオープン」で、PGAツアー全20勝のうちの1勝目を挙げ、ブレイクした。
1986年、ノーマンは世界で10勝を挙げ、PGAツアーとオーストラレイジアンツアー両ツアーの賞金ランキングで首位に立ち、初めて世界ゴルフランキングで1位に。
さらに重要なのは、4大メジャー大会の全大会で54ホール(3日目)を終えた時点で首位に立ちながらもそのうちの3大会で敗退。
「サタデー・スラム」と呼ばれたことだ。
残りの一つであるターンベリー(スコットランド)で開催された「全英オープン」のみで優勝したが、これは、この悲運なオーストラリア人が、その後メジャーで優勝を狙える位置にいながら、それを阻まれ続けたことを予見させるものだった。
ノーマンは1993年、イギリス・サンドウィッチのロイヤル・セントジョージズで、最終ラウンドに64を記録し、(ヘンリク・ステンソンが2016年のロイヤルトゥルーンで63を記録するまで)全英オープン史上、優勝者のベストスコアとなる見事なプレーで、2勝目を飾ったのである。

ノーマンは、通算24アンダーの264ストロークという記録を打ち立てた1994年の「プレーヤーズ選手権」で通算91勝。
PGAツアーの賞金ランキングと平均ストロークランキングでそれぞれ3回ずつ首位に立ち、そして1995年には、ジャック・ニクラスが主催する「メモリアルトーナメント」で2度目の優勝を含む3勝を挙げ、年間最優秀選手に選ばれた。また、ツアーで初めて生涯獲得賞金1000万ドルを突破した選手でもある。
それでも、メジャーでの数々の悔しい思いは、彼の戦歴に大きな影響を与えている。
メジャーでは2位が8回、トップ5入りが20回。
メジャー91試合で、彼は出場試合の半分以上の48回、トップ25の中に入っている。
公式、非公式を問わず、彼の最後の勝利は2001年の「スキンズゲーム」で、タイガー・ウッズ、コリン・モンゴメリー、イェスパー・パーネビックを相手に100万ドルを獲得した。

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1994年には「ワールドツアー構想」(世界のトップ30人、推薦10人が高額賞金をかけて戦うツアー構想)を発表し、PGAツアーと3年間に及ぶ訴訟に。97年にノーマンは敗訴したが、その2年後にWGC(世界ゴルフ選手権)がスタート。ノーマンはPGAツアーに対し、「アイデアが盗まれた」と語った。写真左は、当時のPGAツアーコミッショナー、ティム・フィンチェム氏。「プレジデンツカップ」の構想もノーマンのものだった。

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1996年「マスターズ」では3日間首位をキープしながらも、最終日に78とスコアを崩し、ニック・ファルドに逆転優勝された。

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欧米だけでなく、アジア、中東のゴルフ場設計も積極的に行なっている。

「プレジデンツカップ」の発想はノーマンから

米国選抜チームVS世界選抜チームで2年おきに開催されている「プレジデンツカップ」(今年も米国の勝利に終わった)では、世界選抜チームのキャプテンを2度務め、いずれも米国選抜のキャプテン、フレッド・カプルスと対戦して敗れたが、もともとこの「プレジデンツカップ」は、ノーマンの発想によるものだった。
米国VS欧州の「ライダーカップ」に対抗し、それに出場できないアジア、オーストラリア、南アフリカ、カナダ、南米などの選手たちが参加できる試合を作りたい、と働きかけたのだ。
ノーマンは、ビジネスマンとしても成功し、ゴルフコース設計者として100を超えるコースを手がけて高い評価を受けている。
その他、ワインビジネス、アパレルビジネスなど、幅広く行なっているが、コース外ではもっと大きな満足感を得ているかもしれない。

ノーマンは、2001年、世界ゴルフ殿堂入りを果たしている。

©Getty Images

ノーマンは2001年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしている。

Photo/Getty Images, LIV GOLF

Text/Dave Shedloski

デーブ・シェドロスキー

長年に渡り、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの遺作『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。

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