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【日本のゴルフ黎明期を支えた幻のゴルフ場】第13回「武蔵野CC平山コース」

1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第13回は武蔵野CC平山コース を紹介する。

Before

武蔵野CC平山コース

昭和10年頃の武蔵野CC平山コース の風景(写真提供/日野市郷土資料館)。

プレーに興じる男女ゴルファー(写真/個人蔵)。

Now

都立平山城址公園

※参考文献「平山をさぐる――鮫陵源とその時代」(日野市生活課発行)
「日本のゴルフ100年」(久保田誠一著 日本経済新聞社刊)「ななお 農協だより」1988年22号(写真提供/清流舎)。

源平の合戦で勇名を馳せた平山季重の見張所跡にあったゴルフ場が公園に

京王線・平山城址公園駅から徒歩20分の場所に位置する平山城址公園は、源平・一ノ谷の合戦の先陣争いをはじめ、数々の合戦で名を馳せた平山武者所季重の居館があった場所。その見張所があった丘陵尾根に、現在は公園が広がっている。

クラブハウスがあったとされる場所に建つ杉山又吉功労石碑(写真/清流舎)。

その石碑は、草むらの中にあった。
写真を撮ろうと、うっそうとした笹をかき分けながら斜面を下りようとした瞬間、足元の枯れ葉が滑り、70㌔の体が宙に浮いた。
「ドスン!」と腰から落ちると、勢いよく1メートルばかり滑って、左足の裏が木の根にかかり、ようやく止まった。
この連載が始まって丸2年。13回目の現地取材は、これまでで一番、過酷な条件下でのものになった。

そもそも、ここは源平合戦をはじめ数々の合戦で勇名を馳せた源氏の侍大将・平山季重の屋敷や見張り所があった場所。
敵の侵攻を阻んだ急斜面が多くある。
こんなところに、よくゴルフ場を造ったものだと感心したが、その痕跡を残すものは確かにあった。

散策路から入ったところに人知れずたたずんでいた「功労記念・杉山又吉君之碑」と刻まれた石碑が、その存在を今に伝えていた。

東京・新宿から、ここにゴルフ場が移ってきたのは1923(大正12)年のことだった。
高層ビルが立ち並び、空もすっかり狭くなってしまった現在の新宿だが、明治から大正にかけては、まだまだ土地にも余裕があった。
この時代、山手線・新大久保駅~高田馬場駅間に戸山ヶ原陸軍練兵場があり、隣接した広大な敷地を軍隊が使用していない時には、市民の憩いの場となっていた。
1907(明治40)年頃、そこに「鳥羽老人」が雨の日も雪の日も、一日も欠かさずやってきてゴルフをするようになる。

日本最古のゴルフ場・神戸ゴルフ倶楽部が六甲山の上にできたのが1903(明治36)年で、この連載の第1回を飾った東日本第1号の根岸ゴルフクラブがオープンするのは1906(明治39)年。
その翌年のことだから、まさにゴルフの黎明期だった。

本職は洋服仕立て業の鳥羽老人を中心に「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」が生まれる。
1914(大正3)年に東京ゴルフ倶楽部駒沢コース、1922(大正11)年に程ヶ谷カントリー倶楽部がオープンしていたが、高額の入会金がかかるため、庶民には縁がなかった。
しかし、戸山ヶ原が初心者も受け入れる身近な存在であると東京日日新聞が報じたため、入会希望者が殺到。
1924(大正13)年1月13日、会員80人のクラブとして発会式を行なった。
しかしこれ以後の派手な活動が陸軍を刺激し、ゴルファーは軍用地から締め出された。
行き場を失った会員の川崎保らは、騒動の発端を作った東京日日新聞の協力を得て、移転先を探した。
最初は根岸GCに倣って目黒競馬場内を借りようとしたが、地代が高すぎ断念。
あちこち探した末、南多摩郡七生村の役場にたどり着く。
そこでこの碑に刻まれた人物、地元の杉山又吉を紹介された。

杉山は連日、地主たちの家を訪ねて借地契約の交渉を続け、「結局24人の地主が土地を貸すことになり、ゴルフ場の建設が始まりました」(「平山をさぐる―鮫陵源とその時代」《日野市生活課発行》より)。
1925(大正14)年5月に9ホール(全長2000ヤード)が完成した。
入会金25円(現在の金額で約12万円)、年会費60円(同約30万円)と東京GCや程ヶ谷CCに比べると「入会金は40分の1、年会費も半分」(「日本のゴルフ100年」久保田誠一著)と安かった。
当初は会員が少なく存続が危ぶまれたが、のちに会員は増え、200人を超えるとコースも手狭になっていく。
18ホールの拡張も検討されたが地形的に難しく、1926(大正15)年、千葉県松戸へと新天地を求め武蔵野CC六実コース、同藤ヶ谷コースへと継承されたが、いずれも戦争の影響で閉場へと追い込まれた。

しかし、1928(昭和3)年に赤星陸治(のちの三菱地所会長)が私財を投げうち「多摩カンツリー倶楽部・平山コース」として再生させたことが、前述の「日本のゴルフ100年」に書かれている。
だがこのコースも1937(昭和12)年の盧溝橋事件以降、ゴルフが敵性スポーツと見られたことから客足が遠のき、1938(昭和13)年に閉鎖された。
ゴルフ場は宅地化され、山の上の部分は「平山城址公園」となり現在に至る。

Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。

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