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【Legends of Golf Vol.28】ハリー・バードン 全英オープン最多優勝6回を誇るオーバーラッピンググリップの生みの親

ゴルフ界隆盛の礎を築いたレジェンドたちの栄光を振り返る「Legends of Golf」。

ゴルフも人間性もトップクラスで、 「全英オープン」では最多優勝6回を誇るオーバーラッピンググリップの生みの親ハリー・バードン。

Harry Vardon

ハリー・バードン(英国)
1870年5月9日生まれ。1937年3月20日没(享年66)。イギリス領チャンネル諸島のジャージー島出身。1896年、1898年、1899年、1903年、1911年、1914年の「全英オープン」で6勝し、1900年には「全米オープン」でも優勝。世界ゴルフ殿堂入り。バードングリップ(オーバーラッピンググリップ)の生みの親としても有名。©GettyImages

毎年11月中旬に、DPワールドツアー最終戦で総合優勝者に贈られるトロフィーがある。
その名も「H・バードントロフィー」だ。
その名前の由来となったのは、1870年に誕生した英国人、ハリー・バードン。
「全英オープン」で6回優勝したが、その記録はいまだに破られていない。
現代で言えばタイガー・ウッズに匹敵する強さを誇っていた「英国ゴルフ・ビッグ3」の一人、バードンの偉業をお伝えしよう。

球聖ボビー・ジョーンズも大絶賛!
リズミカルで美しいスイングの持ち主が「全英オープン」6勝

結核を患ったバードン。結核は末梢神経障害などを引き起こし、それが原因でパッティングイップスになったとも言われている。バードンは著書の中で「ショートパットで何度もミスをしたが、それは右腕の痙攣と、それを抑えようとグリップを締め付ける動きが入ることにより、体が動いてしまうからだ」と述べている。©GettyImages
全額寄付金で2001年に建てられたハリー・バードンの銅像。彼の出身地、ジャージー島にあるロイヤル・ジャージーGCの入口にある。©GettyImages

ゴルファーとしても人間としても、最高だったと称される英国人

1937年3月20日にハリー・バードンが亡くなった時、『アトランタ・ジャーナル=コンスティテューション』紙の著名な作家であり、ボビー・ジョーンズの親しい友人であるO・B・キーラーは、バードンを「イギリス諸島で最高のゴルファーであり、おそらく、この古いゴルフの歴史の中で今日までに生み出された最も偉大なゴルファーだ」と書いた。
それは、キーラーの長年の友人、ジョーンズが引退前の1930年に、グランドスラムを達成し、メジャー13勝したことを考えると、かなりの賛辞だ。

しかし、ジョーンズはそれを気にする様子もなく、むしろ1920年にインバネスクラブで行なわれた「全米オープン」で、初めてペアを組んだ時に出会ったバードンに対して、ジョーンズ自身も称賛の言葉をかけていた。

「ハリー・バードンは私が今まで見た中で最も優雅で、最も完成されたゴルファーだった」

「彼はこれまでに登場したゴルファーの中で、最も正確なボールストライカーであったと言っても過言ではないだろう。そして、彼は素晴らしい男だった。非常に静かで控えめだったが、ゲームと人生に対する姿勢は、私が知っている限り、誰よりも誠実だ」

ヘンリー・ウィリアム・バードン(愛称「ザ・スタイリスト」)は、その評判と業績から、今日でもゴルフ史上最も重要な人物の一人と見なされている。

バードンは1870年5月9日に、イギリスの王室属領であるチャンネル諸島のジャージー島・グルービルで生まれた。
バードンと彼の弟・トムはゴルフ愛好家で、ハリーが15歳の時、ゴムボールと生け垣の枝から作ったクラブで、ゴルフを始めたという。

ハリーは1890年(弟の2年後)にイングランドに渡り、ノースヨークシャーのスタッドリーロイヤルGCのグリーンキーパーに就任。
彼はゴルフに熱心に取り組み、やがてヨークシャーのガントンGCのヘッドプロとなった。
彼と弟はどちらもきちんとした身なりで知られ、ゴルフプロの新たなファッションの基準を確立した。

1896年、ハリーはミュアフィールドで行なわれた「全英オープン」に出場し、大会3連覇を目指したジョン・ヘンリー・テーラーをプレーオフで破って優勝。
ゴルフ界に衝撃を与えた。
彼は、最終的に「全英オープン」で6勝を果たし、最後の優勝は1914年のプレストウィックでの大会で、この時もテーラーを2位に追いやった。
テーラーが5勝し、ジェームズ・ブレイドもクラレットジャグを5回獲得したため、バードン、テーラー、ブレイドの3人は「偉大なる3巨頭」として知られるようになった。

またバードンは北米を3回訪問しているが、初回は1900年で、1913年と1920年にも訪れている。
彼はゴルフを普及させるために米国とカナダの両国を巡り、エキシビションマッチに出場。訪問のたびに「全米オープン」にも出場し、1900年にはシカゴGCでテーラーに2打差をつけて勝利したが、1913年と1920年は2位に終わった。
1913年の試合では、マサチューセッツ州ブルックラインのザ・カントリークラブで20歳のアマチュア、フランシス・ウィメットとの有名なプレーオフの末に敗れた。
そのクラブのキャディだったウィメットは、バードンとテッド・レイを破ったが、レイはその後1920年に、インバネスで「全米オープン」のタイトルを獲得した。

バードンはメジャー7勝に加え、個人戦での41勝、団体戦でも15以上の優勝を果たしている。
彼の「全英オープン」の記録には6回の優勝だけでなく、4回の2位、2回の3位、5位、6位が計4回含まれている。

最も優れたプレーヤーを表彰する名誉ある賞に、今も名を残すバードン

当時、「英国ゴルフの3巨頭」と呼ばれていた3人。左からJ.H.テーラー、ジェイムズ・ブレイド、ハリー・バードン。1913年に描かれた絵画だ。©GettyImages
スコットランド・ミュアフィールドで撮影された「全英オープン」チャンピオンたち。後列左がハリー・バードン。ウォルター・へーゲン(前列の左から2番目)の姿もある。©GettyImages
1927年、大観衆を前にセントアンドリュースでプレーするH・バードン。©GettyImages
1903年当時の写真。アドレスしているのがH・バードン。左後ろで見ているのが、セントアンドリュース出身で「全英オープン」4勝のレジェンド、オールド・トム・モリス。©GettyImages

現代のゴルフ界にも残るバードンの名前

バードンが1903年に結核を患った後も「全英オープン」で2勝するなど、競技を続けられたことは驚きだ。
晩年には『ゴルフのやり方』や『私のゴルフ人生』などの数冊の本を執筆。
クラブプロとしても活動を続け、ロンドン近郊のハーツGCが最後の所属先として知られている。

彼はイングランドのハートフォードシャー州トッターブリッジの自宅で胸膜炎と結核の合併症で亡くなり、肺癌も患っていたと考えられている。
享年66。当時の新聞は「完璧なゴルファー」や「全てのゴルファーのアイドル」と彼を称賛した。
またウィメットは、バードンについて「彼はゴルフに、それまで欠けていた科学とリズム感をもたらした」と語った。

バードンは現在も多くのゴルファーが採用している〝オーバーラッピンググリップ〟を最初に使った著名なプレーヤーだった。
スコットランド出身のアマチュア、ジョン・レイドレーがそのグリップを発明したとされているが、バードンが何度も「全英オープン」で優勝したことで有名になったため、「バードングリップ」として知られるようになったという。
彼は母国では非常に有名であり、郵便物に名前しか書かれていなくても、郵便局から配達されたと言われている。

彼の死後、全米プロゴルフ協会は「バードントロフィー賞」を創設。
年間を通して、平均ストローク数が最も少なかったPGAツアーの選手に贈られている賞だ。
これに続き、英国プロゴルフ協会も、欧州ツアーの賞金王、現在ではDPワールドツアーのレース・トゥ・ドバイの勝者に授与される「ハリー・バードントロフィー」を創設した。
1974年に世界ゴルフ殿堂が創設された際、バードンは最初の殿堂入りメンバーの一人となった。

現在、DPワールドツアーの最終戦で決定する年間総合優勝者に贈られる巨大なH・バードントロフィー。過去3年間、連続で獲得しているローリー・マキロイ。©Eiko Oizumi
トロフィーの頂点には、ハリー・バードンを模った小さな人形が装着されている。©GettyImages

Photo/Getty Images

Text/Dave Shedloski

デーブ・シェドロスキー
(アメリカ)

長年にわたり、ゴルフトーナメントを取材。著書にアーノルド・パーマーの伝記『A Life Well Played』やジャック・ニクラスの『ゴールデン・トワイライト』などがある。

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