1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第23回は信太山ゴルフ倶楽部を紹介する。
Before
信太山ゴルフ倶楽部
上田治が設計した阪和電気鉄道沿線の開発の目玉
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Now
大阪市立信太山
青少年野外活動センター
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日本のゴルフ場設計における、一大潮流を築いたチャールズ・ヒュー・アリソン。廣野ゴルフ倶楽部(兵庫)で、アリソンの原設計を具現化する作業に携わり、その流れを引き継いでいった男が名匠・上田治であることは広く知られるところだ。
同じころ、川奈ゴルフ場(静岡)でアリソンの作業を目の当たりにし、名設計家への道を歩み始めたのが井上誠一。
アリソンの思想を受け継いだ二人は「東の井上、西の上田」と呼ばれる地位を築いていく。
その「西の上田」が、処女作の門司ゴルフ倶楽部(福岡県北九州市)に続く2作目として手掛けたコースが大阪にあったことを知る人は少ない。
コース自体が今はなく、ゴルフ史の中に埋もれてしまっていることが、大きな理由。
そのゴルフ場は、大阪の信太山(しのだやま)にあった。
上田が2作目として手掛けた「信太山ゴルフ倶楽部」は大阪と和歌山を結ぶ阪和電気鉄道の全線開通(1930年=昭和5年)に伴う、沿線開発の目玉として、位置付けられていた。
「1931(昭和6)年8月には、阪和スヰートハウスが営業を開始し、料亭・宿泊所などとして利用された。のちに温泉もひかれたという。翌年には、信太山駅からスヰートハウスまでの乗り合いバスの運行もはじまっている」(「信太山地域の歴史と生活」より)。
その阪和スヰートハウスから、ほど近い場所で開発されていたのがゴルフ場。
黒鳥山から伯太一帯は、藤沢薬品の所有地も広がっており、樟脳(しょうのう)用の楠(くす)が植えられていたが、楠の生育に適さなかったこともあり、別荘地(藤沢会館)を残して、所有地の大半をゴルフ場用地に転用した。
ゴルフ場を経営したのは、阪和電気鉄道の子会社である信太山ゴルフ株式会社であった。
ゴルフ場の設計は上田治があたり、造成は安達商会(現安達建設)や南組が担当したという」(同)。
上田にとっては、これが門司に続く2つ目のコース設計となった。
「昭和10年に最初の9ホールズを完成(昭和11年5月開場)。あとの9ホールズは昭和13年施工した」(「社史 安達建設グループ110年の歩み」より)。
「敷地面積は約8・6万坪(約28・4万㎡)」だったと「信太の森ふるさと図鑑」に記されている。
信太山GCが産声を上げた時、大阪には1925(大正14)年オープンの茨木カンツリー倶楽部しかなかった。
付属の練習場が先行してオープンし話題を呼び、南大阪エリアにできた初めてのゴルフ場ということもあり、会員は1936(昭和11)年5月現在で200名を数えたという。
1938年7月17日に全長6190ヤード、パー70の18ホールが完成。
開場式には宮本留吉、戸田藤一郎、森岡次郎のプロ3選手が招待され、同クラブ専属の上田悌造とともに模範競技を行なった。
しかし、阪和電気鉄道が1940(昭和15)年になると、南海鉄道に吸収合併され、消滅。
戦時下となり、ゴルフ場への風当たりも強まる中、「軍需工場に買収されて、ついに再起不能となった」(「日本ゴルフ60年史新版」より)。
「信太山ゴルフ株式会社」も1943(昭和18)年に解散。ゴルフ場はわずか7年という短い命を終えることとなった。
「現在の陸上自衛隊信太山駐屯地の東隣り、大阪市立信太山青少年野外活動センターのあたり」(信太の森ふるさと図鑑)にあったとされるゴルフ場の面影を、現地で感じることは難しい。
しかし電柱を見上げた時、それを管理するための電柱番号に「ゴルフ」と書かれたプレートを多数発見することができた。
これらがもともとゴルフ場のために建てられた電柱であることは間違いない。
名匠・上田の2作目を目にすることも、プレーすることも、今となってはかなわない。実に残念なことである。
※参考文献:「信太山地域の歴史と生活」、「社史 安達建設グループ110年の歩み」、「信太の森ふるさと図鑑」、「日本ゴルフ60年史 新版」資料提供:竹田辰男氏、写真提供:清流舎
Text/Akira Ogawa
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小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。