1901年に最初の4ホールができた日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」のように、現存するコースもあるが、中には消滅し、姿を変えているところもある。
そんな「幻のゴルフ場」を探訪する。
第7回は藤沢カントリークラブを紹介する。
Before
藤澤カントリークラブ(神奈川県)
現在の地図に当時のゴルフ場のレイアウトを重ね合わせたもの。
Now
神奈川県立スポーツセンター
小田急線・善行駅付近に位置する神奈川県立スポーツセンター。
旧クラブハウス
わずか11年で閉場してしまった藤澤カントリー倶楽部。現在は、県立スポーツセンターになっているが、旧クラブハウスだけは当時の趣を残している。写真中央の緑の屋根の建物。
チェコ出身のアントニン・レーモンド設計。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。現在「グリーンハウス」は神奈川県立スポーツセンター総合受付、事務所として活用されている。
クラブハウスの屋根が緑であることから「グリーンハウス」と呼ばれている。
Before
Now
18番ホールのガードバンカー(上)と現在の写真(下)。当時の18番ホールは、現在、深く掘り下げられた藤沢翔陵高校のグラウンドになっている。
関東で一番、眺めのいいゴルフ場は、1932(昭和7)年に開場し、わずか11年で閉場した藤澤カントリー倶楽部だった。
「(前略)中央高台より遠くは富士箱根連山の麗姿墨絵の如く、南は伊豆三浦の両半島相模湾を抱擁し、近くは江の島の浮遊夢のごとし。実に関東平野中、稀に見る風光明媚の景勝地なり」。
1930(昭和5)年に発行された藤澤ゴルフ株式会社の設立趣意書に書かれた一文が、その美しい景観を今に伝えている。
このゴルフ場の設立に動いたのは横浜財界のゴルフ愛好家で組織された「不老会」。
その主要メンバーで横浜商工会議所会頭と横浜興信銀行副頭取を務めていた井坂孝は、関東銀行の破綻整理を依頼された。
そこで清算を目的とする関東興信銀行を設立し頭取に就任したが、貸付担保の中に優良な物件が多いことを知る。
不老会は1930(昭和5)年3月に開いた総会で、藤澤ゴルフ株式会社を資本金50万円で設立することを決め、8月に創立総会を開催。
この席で藤澤ゴルフ株式会社がゴルフ場の土地・建物を所有し、これを藤澤カントリー倶楽部に貸し出す形を取った。
これも苦心の上に捻り出された程ヶ谷CC方式を踏襲したもので、多くのゴルフ場がこの方式を採用した。
20万坪の土地買収費は、12万円を要した(「藤沢市史」より)。
赤星四郎らによる18ホールのコース設計図が出来上がると、早速建設が開始された。クラブハウスの設計はアントニン・レーモンドに白羽の矢が立つ。
総工費11万円の3階建てクラブハウスが、1932(昭和7)年4月に竣工。
レーモンドはこの他我孫子GC、相模CC、東京GC朝霞コース、富士CC、門司GC、現在の東京GCと多くの名門ゴルフコースのクラブハウスを設計し名声を得た。
また、赤星らは東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計のために来日していたチャールズ・ヒュー・アリソンを招致することにも成功。
現地踏査を依頼し、既定の設計に変更を加えてもらい、6383ヤードのコースが1932(昭和7)年5月29日に開場した。
アリソンも廣野GC、川奈ホテル富士コースの設計や霞ヶ関CC東コース、茨木CC、鳴尾GC猪名川コース、宝塚GCの改造も行なっている。
開場の翌年には「日本プロ」第8回大会を開催。さらに翌年には来日したベーブ・ルースもプレーした。
後に小野光一とともに「カナダカップ」を制することになる中村寅吉も1935(昭和10)年から2年間在籍し、ヘッドプロの中村兼吉に特訓を受けたという。
1938(昭和13)年には「日本オープン」も開催したが、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、横須賀海軍司令部に接収されることが決定。
1943(昭和18)年10月24日、コースは閉鎖された。
終戦後、連合国軍が占領・駐留し、1949(昭和24)年に返還されたが、跡地は聖園女学院、藤沢商業学校(現藤沢翔陵高校)、児童福祉施設、県営総合運動場、農地などに割譲され、再びゴルフ場として息を吹き返すことはなかった。
しかし、クラブハウスだけは、県立スポーツセンターの施設として利用されており、現存する日本最古のゴルフ場クラブハウスとして、ゴルフ史上、重要な役割を持つに至った。
かつてゴルフ場内を散歩することが許されていた聖園イグナチアシスター達がクラブハウスの白亜の建物に映える緑青色の屋根を見て「グリーンハウス」と呼ぶようになったという。
それがいつしかクラブハウスの代名詞となった。
Text/Akira Ogawa
小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。