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日本のゴルフ黎明期を支えた 幻のゴルフ場
横屋ゴルフ アソシエーション

横屋GAの敷地内を流れる川に入ったボールを探すゴルファーとキャディたち。Photo/日本ゴルフ協会

 そのゴルフ場があった場所には今、中学校が建っていた。阪神電鉄青木(おおぎ)駅から南下し、阪神高速3号神戸線の下を夕日に向かって約600メートルばかり歩くと、「神戸市立魚崎中学校」が見えてきた。
 ここに日本で2番目のゴルフ場があったことは、地元でもあまり知られていない。1904(明治37)年、日露戦争真っ最中にできたのが、「横屋ゴルフアソシエーション(以下横屋GA)」だ。

横屋GAの1番ティー。後ろに帆船が見える。同コースの所在地は、神戸から阪神電車で青木駅まで30分。そこから徒歩で10分という好立地だった。

 六甲山の上にアーサー・ヘスケス・グルームが開いた日本最古のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」は、1901年に4ホールでスタートしている。1903年には9ホールに拡張され、クラブ組織になったが、六甲山の冬は厳しい。11月中旬から4月頃までは、クローズせざるを得なかった。

 冬でもゴルフがしたい。神戸GCの創設メンバーの1人であるウィリアム・ジョン・ロビンソンは、土地探しに乗り出した。ちょうどこの時、居留地の返還などに備えてグルームが確保していた土地が空いていたため、ロビンソンはここを借りて6ホール、全長1196ヤードのゴルフ場を造った。600円の建設費はロビンソンが私費で賄ったという。

「ロビンソンはゴルフ場横で農業を営んでいた福井籐太郎をグリーンキーパーに任命し、福井家の座敷をクラブハウス代わりとした」(「芦屋の風」2号、芦屋学研究会発行)。当初のメンバーはすべて外国人で、神戸の会員がほとんど。靴を脱ぐ習慣はなく、土足で畳に上がってしまった。籐太郎は英語を話せないため、あきらめたそうだ。

 ロビンソンは籐太郎の次男・覚治を専属キャディにして、ゴルフも教えた。のちに日本人初のプロゴルファーとなる福井覚治である。福井に関しては複数の書物で、1922年以前に「青木駅近くでゴルフ練習場を開いていた」との記述があるが、記録が残っている中では、この練習場が日本最古ということになる。

 ところが1913(大正2)年、横屋GAの土地が売却されることになる。その理由については「神戸スポーツはじめ物語」(神戸新聞出版センター刊、高木應光著)に詳しい。「当時、グルームは神戸のオリエンタル・ホテルを経営していたが、日露戦争の恐慌で借金が倍増し、妻の財産すら処分せざるを得ない状況に追い込まれた。そのため横屋の土地を手放さざるを得なかった」のだ。

 こうして横屋GAは、わずか10年でその歴史に幕を下ろしたが、ロビンソンはあきらめず、鳴尾速歩競馬場の跡地を借り受け、9ホールのゴルフ場を開設した。現在の「鳴尾ゴルフ倶楽部」の前身となる「鳴尾ゴルフアソシエーション」だ。

かつてコース内を流れていた川は、今も跡地の魚崎中学校の東側を流れている。Photo/Akira Ogawa

 一方、横屋の跡地には9年後の1922(大正11)年、南郷三郎の手により「甲南ゴルフ倶楽部」が再建された。南郷は鳴尾GAが開場6年目の1920年3月に閉鎖となったのを受け、この年の10月に垂水に「舞子カンツリー倶楽部(現『垂水ゴルフ倶楽部』)」を開設していた。ここに横屋GAのプロ・福井覚治をスカウトし、プロ兼キャディマスターとして雇い入れた。

 南郷はのちに「日本綿花」の社長に就く人物。神戸GCに入会し、鳴尾GAにも入会していた。南郷とともに甲南GCを設立した伊藤長蔵は、日本初のゴルフ雑誌「阪神ゴルフ」(のちに「ゴルフドム」と改題)を創刊したゴルフジャーナリストの草分け。甲南からは後に日本のメジャータイトルなど22勝を挙げた戸田藤一郎が育った。

かつての1番ティー付近は、魚崎中学校の校庭になっている。

 ところが、「1934(昭和9)年の室戸台風による関西大水害と19
38年の表六甲山津波で壊滅的打撃を受けて命脈を絶たれ」た(日本のゴルフ100年より)。かつてゴルファーが闊歩した場所は、神戸市立魚崎中学校の校庭となり、スポーツに汗を流す中学生の声が響き渡っている。

Text/Akira Ogawa

小川 朗
東京スポーツに入社後、ゴルフ担当を長年務め、海外特派員として活躍。男女メジャー取材も25試合以上。日本ゴルフジャーナリスト協会会長。

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